次回・第8回は「三河一揆でどうする!」のタイトルどおり、三河一向一揆が本格的に描かれていく内容となりそうです。ドラマでは家康が全ての一向宗の寺から年貢を強制的に取り立てたことが一揆の原因として描かれてましたが、しかし実のところ、史料を見る限りでは、一揆が起きた原因はよくわかりません。

 三河には、本願寺系一向宗の寺として、本證寺(現在の安城市野寺町)、上宮寺(岡崎市上佐々木町)、勝鬘寺(しょうまんじ、岡崎市針崎町)がありました。「三河三カ寺」と総称されるこれらの寺には、ドラマでも描かれたとおり、家康の父の代から、「守護使不入の特権」を与えられていました。これは簡単にいうと、寺の中を治外法権の土地とする約束事で、何があっても、役人の武士が(無断で)寺内に立ち入ることはできないわけです。

 ドラマで描かれた強制徴収のシーンのように、永禄6年(1563年)、菅沼藤十郎という家康の家臣が上宮寺から「籾(もみ、籾殻を取り除く前の米)」を持ち去ったことが三河三カ寺の激しい怒りを買い、そのことが一揆の原因だとする説があるのですが、研究者によると、菅沼藤十郎という名前の人物が当時の家康の家臣にいたと確認できる記録がないため、真実味に欠けているところがあります(『松平記』)。

 あるいは、永禄5年(1562年)、本證寺内に不審者が侵入したので、これを西尾城主・酒井正親が役人を派遣して捕らえたものの、役人が許可なく寺内に入ることを禁ずるという「不入の特権」が侵害されたといって三河三カ寺が怒りだしたことが一揆の発端だとする書物もあります(『三河物語』)。しかし、これも三河三カ寺が怒った理屈としてはあまりに不可思議であり、三河一向一揆が勃発した背景は依然、謎に包まれています。