本多正信が一向宗側に付いたことははっきりしていますが、実際にどのような働きをしたのかは具体的にはわかっていません。ただ、一揆の勃発までは味方だった者たちと敵対して戦ったことは、大きな悲劇を生みました。武将としての能力や得意とする戦術など双方が把握しているため、余計に戦闘は激しくなり、想像以上の長期戦になってしまったのだと考えられます。

 ドラマ第7回の終盤、一向宗の信徒たちから家康が取り囲まれ、命も危ういという状況があったと思いますが、さすがにあれはドラマならではの脚色にせよ、一揆の勃発から約1年後、永禄7年(1564年)1月11日の「上和田の戦い」において、家康が二発の銃弾で狙撃されるという事件が起きたくらいです。このとき家康は、身に着けていた鎧(おそらく例の金陀美具足)が硬かったので、なんとか命拾いしました。

 しかし、それから1カ月ほど後の2月13日に上宮寺が兵を送り込んで岡崎城を攻撃したのを最後に、一揆の勢力は弱まり、家康は同月末には暴動を鎮圧することができたそうです。この終戦までの経緯も謎めいていますが、ドラマではこれをどう描くのでしょうか。

 一揆鎮圧後の家康は、三河を比較的スムーズに統一することに成功しています。それは、領内にありながら治外法権地帯だった一向宗の寺や勢力を撃滅できたからだけでなく、一向宗に味方した武士たちが、家康の軍門に下っておとなしくなるか、あるいは追放されたり、逃走してくれたので、統治がやりやすくなったという側面もあったとみられます。