いずれにせよ、この事件は家康が生涯で経験する3つの大ピンチの最初のひとつとなりました。激戦が約1年にもわたって続き、「飼い犬のように家康に懐いている」と陰口を叩かれるほどの忠臣ぶりだった三河武士たちがバラバラと家康から離反し、一向宗側に付いてしまったのです。「信仰」と「忠義」の間で悩む武士たちが多数いたことがうかがえますね。本多忠勝などは家康への忠義を取ってわざわざ一向宗から浄土宗に改宗していますが、「信仰」を重視した家臣たちもおり、その代表が本多正信でした。
吉良義昭など、三河に残存していた今川家の勢力ももちろん一向宗に味方し、家康に対抗しましたが、興味深いことに、これら今川家の家臣と家康から離反した元家臣たちが協力し、家康を叩く作戦に出たという形跡はないそうです(平野明夫氏の説)。この一揆が「信仰」を守るための宗教戦争であれば、両者が手を組んでもおかしくないはずで、そうならなかったということは、ただの宗教戦争だと言い切ることができない側面があったとみられます。家康を新当主として認めるか、認めないのかという“お家騒動”の側面も強かったのではないでしょうか。「アンチ家康」の立場は同じでも、家康の元家臣と今川勢が手を組まないというところは、当時の武士たちの律儀さがうかがえ、面白いといえます。
さて、公式サイトの第8回の予告文には「家康は半蔵(山田孝之)を寺へ潜入させる。そこで半蔵が目にした空誓(市川右團次)を補佐する、意外な“軍師”の正体は…。」と、意味深な書かれ方をしていますが、この“軍師”こそ、本多正信と見て間違いないでしょう。(1/2 P2はこちら)
空誓上人が住持(=住職)だった本證寺(ほんしょうじ)は、三河三カ寺の代表的存在でしたが、家康軍との激闘でダメージを受け、さらに終戦後には家康の命によって更地になるまで破壊されてしまいました。しかし、その後、本證寺は約300年ほどかけて現在の姿につながる形に復興を遂げていったようです。その本證寺には本多正信のお墓が現在もあり(彼の骨は東京・浅草の徳本寺の墓に眠っていますが)、正信への強い感謝が後世にも受け継がれていることがうかがえます。空誓上人は時には自ら陣頭に立つなど三河一向一揆を指揮しましたが、本多正信はその空誓上人のブレーンだったのではないでしょうか。