当然ながら、腐った魚を膳に上げた光秀の不手際や、そのことに信長が激怒したという記述は『信長公記』など信頼できる史料にはないのですが、イエズス会の宣教師・フロイスによると、この宴のトラブルの逸話は、本能寺の変の後に急速に世間に流布したそうで、その不自然さに気づいたフロイスは『日本史』で次のように分析しています。
「信長は奇妙なばかりに親しく彼(=光秀)を用いたが(略)三河の国王(=家康)と甲斐国の主将(=穴山梅雪)たちのために饗宴を催すことに決め(略)これらの催し事の準備については、信長は、ある密室において光秀と語っていたが、元来、(信長は)逆上しやすく、自らの命令に対して反対を言われることに堪えられない性質だったので(略)信長は立ち上がり、怒りをこめて一度か二度明智を足蹴りにしたという」
この密室のパワハラ事件が、なぜか本能寺の変の後に広まったことをフロイスは疑問視し、「主殺し」という武家社会最大の罪を犯してしまった光秀が、同情を集めることで自分の行為を正当化しようと、「明智光秀は信長の暴力の被害者だった」という噂を広めさせたのではないかと考えたようです。
信長が武将相手にパワハラ・モラハラを行った記録は、信頼できる史料にはほとんど存在しておらず、光秀が本能寺の変後に流させたというこの一件に限られるという話をこれまで何度かしました。一方で、本能寺の変で信長が討たれる約2カ月前の4月10日、信長は安土城の女房たちを皆殺しにするという凄惨な事件を起こしています。
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