これは信長が留守の間、安土城の女房たちが仕事もせずにだらけ、あるいは城から無断外出までしていたため、信長は深刻な背信行為だとみなし、処罰したものです。
ドラマでも、ゆっくり腰を据えて富士の絶景を楽しもうともしない、短気な信長が描かれていましたが、史実の信長も相当に忙しない人物で、片道15里(60キロ弱)という、通常なら泊まりになる行程をその日のうちに済ませて安土城に戻ってきてしまったのです。「信長さまは、さすがに今日は帰ってこないだろう」と思いこんだ女房たちが無断で自由行動を取っていたことが、信長の逆鱗に触れてしまったのでした。一部の女房たちは桑実寺に参詣していたそうですが、彼女たちも帰城次第、皆殺しにされました。寺の長老が、信長の怒りをとりなすために安土城を訪問しましたが、なんと彼も成敗されてしまっています。
こうしたエピソードを見ると、武将相手のモラハラ・パワハラの記録が残っていないからといって、実際の信長はそういうことをする人物ではなかったと結論づけるのは、やはり難しいかもしれませんね。少なくとも本能寺の変の直前には、名実ともに「暴君」となっていた可能性はあります。
安土城での家康たちの接待において光秀が大きなミスを犯し、激怒した信長から即刻追放というパワハラを受けた……という次回のストーリーは、今回検証してきたとおり史料上はそんな事件はなかったと否定されるところですが、先述のような冷酷なエピソードも多い信長だけに、記録にも残らないような細かいトラブルが積み重なって、光秀との関係はかなりギクシャクしていた可能性はあったかもしれないとも思ってしまいました。
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