信長は、三河地方の吉良(現在の愛知県西尾市)まで足を伸ばし、鷹狩りを行うことがありました。注目されるのは、天正3年(1575年)以降、信長は毎年末、三河・吉良を鷹狩りで訪れていたことです。いうまでもなく三河・吉良から岡崎城はさほど遠くはなく、正式に岡崎城に信長が立ち寄ったという記録がない年でも、なんらかの形で信康・五徳姫とは対面していたのではないかと思われます。
そして、瀬名姫と信康が命を落とすその1年半ほど前にあたる天正5年(1577年)12月と天正6年(1578年)1月にも、信長は三河・吉良の地で連続して鷹狩りを行った記録があります。つまり、この鷹狩りの本当の目的は、岡崎城を訪問し、信康と五徳姫の間に起きた深刻な夫婦トラブルを調停することだったのでは、とも考えられるのです。それゆえ、信康の不品行を語る逸話には、一定の信頼が置けると筆者には思われます。
信長が、信康・五徳姫の夫婦関係の修復を試みていたのならば、その場に家康もいないとは考えにくく、おそらく二人の手で、織田・徳川両家の同盟の象徴である信康・五徳姫夫妻の仲裁をしていたのではないでしょうか。しかし、仮にそうだったとしても、残念ながら関係修復は実現しなかったことになりますが……。
五徳姫から父・信長に、信康と築山殿の不品行を告発した書状が届いたとされるのが天正7年(1579年)のことだったとされますが、実物は現存せず、告発時期も明らかではありません。この時期になると、さすがの家康も息子・信康を放置できなくなっていたようです。
「家康が浜松城から、五徳姫と信康の仲直りのために来た」と考えられる記述を家康の重臣・松平家忠が残しています(『家忠日記』、天正七年六月五日条)。「考えられる」としたのは、この該当箇所の紙が破損しているためで、「御○○の中(=仲)なおしニ」としか読めないからです。「御○○」の欠落した文字が、信康の正室という意味の「御新造」ではなく、徳川家の親戚筋を指す「御一門」であった可能性も否定はできません。しかし、多くの史料で不仲が言及されていることを考えると、信康夫妻に関する単語が入ると考えるのが自然ではないでしょうか。
五徳姫の告発状が送られた時期については、築山殿殺害が8月、そして信康自害が9月だったことを考えると、7月くらいだと考えられます。
しかしその内容は、五徳姫が父・信長に対し、夫や義理の母親を糾弾する内容を10もしくは12箇条にまとめたもので、当時の女性が送る手紙としては不自然な形式でした。この糾弾の背景には家康の指図があったのではないかと筆者が考える所以はここにもあります。この告発状は、その「箇条書き」という性質から、家康が書いたもの――少なくとも家康がその原案を用意したものだったのではないでしょうか。
家康が信康を嫡男から降格させなかった理由については、先述の通り、信長の娘である正室・五徳姫のステイタスを守るためであり、すなわち彼らの結婚が象徴する「清洲同盟」のために、傷をつけるわけにはいかなかったと筆者は考えています。