であるならば、なぜ家康は、信康が告発され、死に追いやられることを許したのでしょうか。そこで気になるのが、信康(そして築山殿)が武田家と内通していたという告発内容です。武田家は織田・徳川両家にとっての宿敵であり、その敵と内通していたのが真実だったのなら、話は大きく違ってくるわけです。そしてそれは、家康が密かに望んでいた信康断罪の口実となりえました。
信康や瀬名が武田家と内通しているのが事実であり、そのことにまず勘付いたのが五徳姫なら、最初に相談した相手は、信康の父であり瀬名の夫である家康だったのではないでしょうか。それが先述した、「家康が五徳姫と信康の仲直りのために来た」と書かれていたとみられる『家忠日記』の「天正七年六月」のことで、家康と対面したときに五徳姫が打ち明けたのかもしれません。
五徳姫が結果的に信長に告発することになったのは、このとき家康からそうするよう指示されたからだと思われます。そうすれば、「敵と内通していた」という大義名分でもって家康は問題の多すぎる嫡男・信康と築山殿を堂々と断罪できますし、五徳姫もつらい結婚生活から晴れて解放されることになります。内通者の処分になるわけですから、姫にも傷がつかないでしょう。この家康の「提案」に、彼女も乗るしかなかったのではないでしょうか。天正7年6月に五徳姫が家康に相談し、告発状が7月頃には信長のもとに届いて、断罪された瀬名姫と信康はそれぞれ8月と9月に亡くなった……というわけです。
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