ドラマ第10回では、将軍(=足利義輝)が討ち死にしたという知らせを聞いた信長(岡田准一さん)が不敵に微笑むシーンがありましたが、それ以前から足利将軍家が根底から揺らぎつつあったのは明白で、義元が「天下」を狙っていたかまでは不明ながら、この隙に京都の政界にもさらなる影響力を持とうとしていたのではないか、と考えられます。そのために義元は、今川家の新当主・氏真に京都の上流社会で強い影響力を持つ公家たちと深い関係を築かせ、将来、今川家が京都に進出できるよう画策していたのではないでしょうか。軍事方面などは、部下たち(たとえば徳川家康)に任せておけばよいという判断です。

 義元の時代の今川領国も、朝比奈家、岡部家といった複数の重臣たちの寄り合い世帯にすぎず、義元の強いカリスマとリーダーシップがあって、ひとつにまとめあげられている状態でした。『鎌倉殿の13人』でも描かれたように、日本は平安末期から、都(京都)の上流階級との血縁があったり、文化的交流がある人物はカリスマ的な存在とみなされ、それはこの戦国期も同じでした。ゆえに義元は、嫡男である氏真には自分以上に文武両道のカリスマとなってほしかったのではないでしょうか。その教育は結局失敗してしまったのかといえば、そのとおりではあるかもしれませんが、義元は義元なりに嫡男・氏真への「帝王学」伝授に余念がなかったのは事実だと考えられます。特に芸術関係については、昔も今も早期教育が重要ですから。

 しかし、義元の早すぎる死は、氏真の教育が途中で終わってしまうことを意味しましたし、当然、義元のカリスマ性によってまとまっていた家臣団の忠誠心も大きく揺るがしました。それも新興勢力にすぎない織田信長との戦における無惨な敗死となれば、なおのことです。

 こうした状況の中で、最初に今川家に反騎を翻し、織田信長と同盟を結んだ徳川家康が今川家臣団に与えた影響は大きく、「身内」に近い人物の離反さえ食い止めることができなかった氏真は、今川家を背負うには未熟だと周囲から判断されてしまったようです。