父・今川義元(野村萬斎さん)に「私はそれほど頼りのうございますか!」と詰め寄り、「そなたに将としての才は、ない」ときっぱり言われてしまう場面もあるようですが、『どうする家康』の監修者にも名を連ね、戦国時代の今川家研究の大家である小和田哲男氏は、義元が氏真の子育てに失敗していたという説を唱えています。
今川義元が今川家の勢力を大きく拡大し、「海道(=東海地方)一の弓取り」と称賛されるようになったのは、彼に優秀な軍師・太原雪斎(太原崇孚)がついていたからです。しかし、なぜか義元は、氏真の教育に雪斎を関与させた形跡がありません。ドラマの氏真も、自分以上に義元から可愛がられていた家康に対して、コンプレックスを募らせている様子でした。
史実の義元も、「人質」の家康には雪斎をつけて軍事を学ばせていましたが、一方で嫡男の氏真には、京都から駿府を訪れた当代一流の文化人の公家たち……たとえば和歌の大御所として知られた冷泉為和、蹴鞠宗家の当主として名高い飛鳥井雅綱らを付けて、文化面での英才教育に余念がなかったそうです。
現代人には奇異に映る教育方針かもしれませんが、最近の研究では、永禄元年(1558年)ごろ、義元は21歳の若さの氏真に家督を譲り、今川家の当主としていたようです。義元は、息子のことは他人に任せるのではなく、自分の手で理想の大名に育てあげようと考えていたのかもしれません。
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