家康が今川家から独立したことに刺激されたのは、今川家の旧臣たちだけでなく、甲斐の武田信玄も同じでした。しかし、武田家は当時、今川家とは事実上の同盟関係にあった上に、義元の娘(氏真の妹、後の嶺松院)を正室に迎えていた当時の信玄の嫡男・義信は、親今川の姿勢を崩さず、あろうことか父・信玄と対立し、結果、謀反の罪で幽閉され、後に自害させられました。

 この騒動により、義信の正室だった氏真の妹は今川家に送り返されましたが、これは当時の慣例上、同盟の破棄を意味する行為でした。それでも信玄は氏真との間に新たな盟約を交わすことを望み、武田家と今川家の友好関係は続けると誓いましたが、その裏で、ドラマでも描かれたように、徳川家・織田家への接近を図っています。

 同時期の氏真も、武田信玄の天敵といえる越後の上杉謙信に水面下での接近を試みているので、政治家としての彼は、後世の我々が想像するより、ずっと「まっとう」だといえるでしょう。

 永禄11年(1568年)12月13日、信玄と家康は協定を結び、両家同時に駿河侵攻を開始しています。今川家は駿河と遠江の二国の守護でしたが、信玄によって駿河はまたたく間に落とされてしまい、氏真は本拠地・今川館を脱出し、遠江の掛川城まで愛妻・早川殿(ドラマでは糸)と共に落ち延びます。