こうしてストリートピアノで本来自宅でやるべき本気の練習を平気でしてしまえることこそが、“私”が“公”へとだらしなく流れ込んでいる風潮を示す一例なのではないか。

 たとえば、駅構内などでイヤホンで耳をふさぎつつ、スマホでウェブトゥーン(オンラインの漫画)を読んだりゲームをしながら、のろのろ歩く行為をよく見かけます。あれも、ストリートピアノで自分のためだけの練習をしてしまうことと変わりありません。

 自宅や自分の部屋だからこそ許される“私”を公共のスペースにおいてさらけ出すことに、なんら恥じらいを感じていないからです。それを自由と履き違えている点も同じと言えるのではないでしょうか。

◆常識すら明文化しなければ統率が取れない社会に…

ピアノ
 つまり、撤去された加古川、そして今回の南港ストリートピアノ、どちらも根っこは変わりません。本来、言われなくても常識で判断できていたようなことすら、もはや明文化しなければ統率が取れない社会になりつつあるのではないか、ということなのです。

 たとえば、演奏は一人10分だか15分まで、とか、いちいちルール化しなければいけないのでしょうか? 音楽というものの特性、そして自分が聞き手にまわったことを想像すれば、ピアノを使っていい時間ぐらい、本来なら肌感覚でわかるものでしょう。

 にもかかわらず、文字にして強制力をもたせなければならなくなってしまった。

 先程の『THE IRISH TIMES』の言葉を借りれば、こちらこそ、より深刻な「社会崩壊の兆し」であるはずです。

 ゆえに、南港ストリートピアノが冒頭で訴えた<こんな掲示はしたくなかった>の「こんな」とは、そうした常識の土台を失った光景に対する諦めだと受け止めるべきなのでしょう。

<文/石黒隆之>

【石黒隆之】

音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4