明治時代以降、政府の方針で寺と神社は別物ということになりましたが、それ以前では「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、仏教と神道が一体化しているケースがよくありました。そして、興福寺は春日大社の御神体の威光を背景に、朝廷を強請(ゆす)る方法を編み出したのでした。こうした「神鏡」を使った強訴を「神木動座」と呼びますが、さすがに御神体を持ち出すのですから、興福寺側でも本当に強訴を行うべきかを僧侶全員が顔を隠し、声音も変えて、誰の発言かはわからないように協議した上での決行だったそうです。
さらに前回のコラムでも触れましたが、興福寺は藤原氏の氏寺で、朝廷の高級役人たちの大部分を藤原氏出身者が占めていた時代に、興福寺から「自分たちの言う事を聞かない藤原の誰それは、もはや藤原氏の者とは認めない」と宣言される「放氏」を行われると、謹慎するしかなくなるのでした。そうなると朝廷も機能麻痺に陥るのです。
こうした興福寺の強訴の手法は、比叡山・延暦寺や、後にはさまざまな寺社が真似るようになっていきました。前回のドラマには検非違使(現在の警察官のような役人たち)たちが、宮中に侵入した僧たちを追い払ったというセリフがありましたが、後には「神鏡」を掲げ、訴えを起こしている僧たちを攻撃しようものなら「神の怒りに触れて死ぬ」、「弓矢も地面に落ちるから届かない」とまで信じられるようになっていたのです。
そんな中、道長の時代よりも150年ほど後の話ですが、平清盛が八坂神社こと祇園社に仕える「神人」たちと小競り合いを起こし、清盛たちが放った弓矢が神輿に突き刺さって大騒ぎになるという事件も起きました。久安3年(1147年)6月15日の「祇園闘乱事件」です。
当時から、こういうスピリチュアルな何かは、信じる人は信じるけれど、信じない人はまったく信じなかったのでしょうが、宗教的権威を背景に寺社がやりたい放題に振る舞えたのが、平安時代末の11世紀~室町時代後半の16世紀くらいまでの日本だったのですね(さすがに本格的に戦乱の世ともなれば、神威も霞んだというべきでしょうか)。