さて、次回の『光る君へ』では「漢詩の会」として、平安時代の貴族たちが競い合った「作文会(さくもんえ)」が取り上げられるようですので、道長の文学的才能について、今回は少し掘り下げてお話したいと思います。
前回のコラムで、道長と紫式部は6代前まで先祖が同じで、遠い親戚にあたること、紫式部の祖父や曽祖父なども比較的目立つ文学的功績を残したのに対し、道長の文才はさほどではなかったというお話をしました。
道長は、彼の日記である『御堂関白記』の中で、紫式部や『源氏物語』について言及しておらず、『源氏物語』をまともに読んでいなかったのではないかという説があります。紫式部は『紫式部日記』の中で、『源氏物語』の冊子を目の前に置いて、道長と和歌のやりとりをしたと書いているので、紫式部が話を盛っていない限り、道長はそれを日記に残すほどの重要な逸話とは感じていなかったということになります。
しかし、これは道長が文学オンチだったという意味ではありません。『源氏物語』や紫式部については日記で言及しない一方で、道長は紫式部の父・為時の漢詩には触れていますし、作文会で誰それのこういう漢詩がよかったなどの感想も熱心に述べているのです。
平安時代で「才」といえば、それが主に漢詩文の才能を指していたことで明らかなように、当時の貴族の男性に第一に求められる才覚とは漢詩文なのです。また、当時の貴族の日記は、興味を惹いたことをなんでもメモしたり、内面の秘密を吐露するような代物ではなく、主に自分の(男性)子孫が日々の生活や、出世競争で勝ち抜くヒントとなる事項だけを選び、漢文体で書き残すものでした。