ちなみに藤原道長の子孫たちにとって、道長は神格化された存在でしたが、本来なら脈々と書かれ続けていたはずの『御堂関白記』には欠本があります。もちろん火事などの犠牲となったものもあるでしょうが、当時は紙や墨、筆といった筆記用具の値段がかなり高く(ざっくりとした試算ですが、現代の半紙程度の大きさの紙一枚で1000~数千円という値段)、そういう理由もあってか、『御堂関白記』の裏紙を使って、子孫たちが自分の日記を書くのに再利用しているんですね。再利用の理由については諸説ある段階ですが、興味深いことです。

――と、少々脱線しましたが、道長は漢詩には熱心でした。彼は当時の内裏や有力貴族の邸宅で開催されていた「漢詩の会」こと作文会に参加するだけでなく、大江匡衡という学者が書いた『江吏部集』(ごうりほうしゅう)の「詩序」には永延2年(988年)、数え年23歳にして、道長が早くも作文の会を主宰したことが書かれています。

 しかも、道長は当時、かなり認められた漢詩人でもあったようです。道長をヨイショしまくった歴史物語『大鏡』には、道長を唐代の中国を代表する漢詩人・白居易になぞらえた部分さえ出てきますが、これはお世辞がすぎるにせよ、文学好きで知られる一条天皇の時代の名作漢詩を収めた『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』には、一条天皇と道長の漢詩は同数の6首が採用されています。

 興味深いエピソードもあります。ドラマでも取り上げられるかもしれないので、今回はざっくりと述べますが、道長が甥にあたる藤原伊周(これちか)と権力闘争を繰り広げていた当時、作文会も戦いの舞台となりました。

 とある宮中の作文会で、伊周が堂々たる才能を発揮した数日後、道長は自邸でも作文会を主催し、対決を試みました。当時の作文会ではお題が与えられ、それにそって詩を書くわけですが、「花落春帰路(=花散る春の帰り道)」というお題での伊周の漢詩の出来栄えはすばらしく、道長でさえ感涙してしまうほどでした。さすが先述の『本朝麗藻』に15首もの自作漢詩が選ばれた記録を持つ才人・伊周です。