当時は編集部にテレビは1台。だが、徹夜状態なので消していたのではないか。

 私は驚いて編集部に電話した。すぐに先輩から戻って来いといわれた。それから校了日を延ばして取材、原稿まとめ、三島の年表づくりなど大わらわで特集を作った。

 私にとっても忘れ難い事件だった。

 その後、FRIDAYが創刊するとき、三島の首が映っている写真を掲載して物議を醸した。

 私は、三島の愛読者ではないが、彼はなぜ切腹死をしなければならなかったのか。彼が本当に訴えたかったことは何だったのだろうと、今でも時折考えることがある。

 文春は、事件現場にいた益田兼利陸上自衛隊東部方面隊総監の秘書的な役割を果たしていた磯邊順蔵二曹(当時31、現在86)が、三島からわずか3メートルのところで三島の割腹を現場で見ていて、当時、日記に残していたと報じている。

 彼は今、脳梗塞で倒れ、介護老人保健施設にいるそうで、妻の眞知子(75)が当時、夫から聞いた話を語っている。

「三島さんのお腹の傷は深く、腸がかんなで引いた木くずのように波打ち、次から次へと飛び出したそうです」

「この日は事前に三島さんの来監予定があり、主人はお茶をお出ししたそうです。その時は和やかな雰囲気だったらしいのですが、面会の終了時間を過ぎても誰も出てこない。不思議に思った隊員が小窓から総監室を覗くと。益田さんが縛られているのが見えたそうです。主人は掃除用モップを持ち、上官の合図とともに総監室へ突撃したと聞いています」

「主人はこの時、右手中指に数センチほどの傷を負ったようです。三島さんの日本刀、関の孫六によって先端が落とされ刀傷が残ったモップは、今も保存しています」

「介錯に数回要した三島さんの首は切り口がギザギザしてうまく立たず、床に転がってしまった。それを見た益田さんは新聞紙を持ってこさせ、首の下に当てがい、まっすぐに立てたそうです。そして残された楯の会の会員や主人に、『仏に手を合わせなさい』と呼びかけ、合掌したと聞いています」