――かつての韓国は朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領から全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領両政権の26年間にわたり軍事独裁国家でした。そして、「光州事件」は朴正煕元大統領の暗殺後に発生しています。

 1980年5月18日、全斗煥将軍(当時)による軍事クーデターに抗議した学生・市民の大衆運動が、戒厳令を布いた韓国軍によって軍事鎮圧され、多数の死傷者を出します。しかし、その後、大統領となる全斗煥将軍は、この事件に関する情報のすべてを統制・隠蔽しました。光州事件が後の韓国社会に与えた影響は、どれほどのものだったのでしょうか?

土佐 それは簡単に測れるものではありません。戦後の日本ではなかなか想像できないと思いますが、自国民を守るはずの軍隊が市民に銃口を向け、大量の死傷者を出しても撃ち続けるということが、どのような論理と感情で可能となったのか……。とてつもなく重い問題ですが、同時に極めて単純な問題でもあります。要は、銃口を向けた相手を「敵」と思い込めばいいのですから。それは、あるときは「アカ(共産主義者)」、あるときは「暴徒」と定義づけられました。

 しかし、本当の問題はそれからです。そのような悲惨な出来事を経たあとに、加害者と被害者が「同じ国民」として、どうしたらうまくやっていくことができるでしょうか? 和解や相互理解は可能でしょうか? そんなことは、端的に不可能です。そこには、永遠に解のない重い問いが立ちふさがるしかないのです。

――そのような背景もあってか、10月10日付「毎日新聞」の「ノーベル文学賞の韓江氏『美しさと暴力が共存する世界に苦痛感じる』」という記事では、彼女が韓国メディアのインタビューで「光州民主化運動が人生を変えた」と述べたことが紹介されました。

土佐 韓国がその後、民主化を実現した結果、暴徒の烙印を押された人々には名誉回復がなされ、犠牲者に対しては補償金が支給されました。政治的には一応決着し、光州は民主化運動の聖地と呼ばれるに至りました。しかし、それで本当に犠牲者の魂は救われるでしょうか? それはもはや政治の問題ではなく、宗教や文学しか扱えない魂の問題です。この問題にどう向き合うかは、韓国で表現者として生きていくにあたり、避けて通れないといったら言い過ぎかもしれませんが、それくらい重い十字架としてのしかかっていると思います。