――ところで、1988年に国民投票で大統領直接選挙制を軸とする憲法改正が実現し、盧泰愚(ノ・テウ)大統領が誕生した「第六共和国」政体になるまで、同国と日本の関係はどういうものだったのでしょうか?

土佐 韓国現代史には国家権力が引き起こしたいくつもの悲惨な出来事が起きていますが、その代表が1980年5月の光州事件と、1948年4月3日に始まった済州島民蜂起に対する虐殺、いわゆる「4・3事件」でした。後者は米軍政下に起きていますし、光州事件も米政府の黙認がなければ起きなかった可能性があります。日本の保守政権は、いずれに対しても黙認以上の介入をしようとはしませんでした。日韓いずれの政府も、人の命よりは経済的実利を重んじる姿勢であり、また大きな対価を払おうとも反共戦線を維持するための国家統合を優先していた時代でした。

一方で、韓国の反体制知識人と日本の知識人が支え合う面もありました。しかし、大江健三郎が韓国を代表する抵抗詩人、金芝河(キム・ジハ)に連帯を呼びかけたところ、逆に植民地支配の加害者としての責任を追及されたという苦い出来事もありました。政府同士の関係には欺瞞的な馴れ合いがあったと言えるかもしれませんが、かといって市民同士の関係もすぐ腹を割って対等にというわけにもいかなかった時代です。

※後半へ続く