すると四郎次郎は、「鯛をかやの油(榧油)にて揚げ、そが上に薤(にら)すりかけ」た食べ物が美味く、上方で人気だと教えました。ちょうど榊原晴久という人物からよい鯛が届けられたところだったこともあり、家康はそれを作らせ、さっそく賞味したといいます(『東照宮御実記』)。当時、素材に水溶きの小麦粉を付けて揚げる天ぷらの調理法はすでに確立していたようです。家康が質素倹約を重んじたという逸話は多いものの、榧油は現在でも生産量が限定され、非常に高価な油だったことが知られています。そんな希少な高級品をすぐに使うことができたのは常備させていたからでしょう。家康の食生活は想像される以上にリッチだったようです。「鯛の天ぷら」には別レシピもあって、「鯛を胡麻油で揚げたものに、にんにくを擦ってかける(『元和年録』)」ともあります。
しかし、美味だったぶん、普段以上に食が進んでしまったのが災いしたのでしょうか。翌22日の午前2時頃、家康は強烈な腹痛に襲われたそうです。ドラマでもたびたび出てきましたが、家康は自分で薬を調合するほどの健康マニアで、この時も万病丹30粒、銀液丹10粒を飲んで、腹痛をなんとか治めたといいます。万病丹は、サナダムシなどの虫下しに使われる薬で、銀液丹は水銀とヒ素を主原料とする猛毒です。当時の感覚としては、寄生虫が先に死ぬか、宿主の人間が死ぬか……という意気込みで服用したのかもしれませんが、恐ろしい毒物を薬だと思って常用していたようですね。少なくとも鯛の天ぷらが直接の原因となって死んだわけではないのです。
25日にはなんとか駿府城に戻ることができた家康ですが、腹痛は治まらず、2カ月後の3月下旬には固形物が食べられなくなるほど悪化してしまいました。家康は末期がんだと思われる内臓病で、腹部にしこりが確認されるほどでしたが、しかし健康マニアの家康は、医師から何を言われても「これはサナダムシのせいだ」という自己判断に固執します。そしてやはり虫下しの薬である万病丹を服用するのですが、医師・片山宗哲が「サナダムシの薬など効かない」つまり「あなたは死病だが、少しでも長く生きたいなら(毒なので)体に害のある虫下しなどやめて、体力を温存すべき」と診断したことに激怒し、信州への流罪にしてしまいました(『寛政重修諸家譜』)。