『東照宮御実記』の描写からは、晩年の家康がなかなか面倒くさい爺さまになっていたことがうかがえます。年を取ると若い人のファッションセンスが理解できなくなる現象は、家康にも見られました。伏見彦太夫という人物が、通常より大きな太刀を差し、(おそらくは若き日の織田信長や前田利家のようなバサラ趣味の)奇妙な服装で仕事していたのですが、家康の近縁にあたる若者の松平信直(甚兵衛)がこの伏見風のコーディネートで家康の前に現れたところ、家康は怒り、「自分より低い身分の者の間で流行っている服装を軽々しく真似てはいけない(要旨)」と叱ったそうです。
また、武藤平三郎という人物が、晒し木綿の元結を使って髪を結うという当時流行した髪型をしているのを家康は目ざとく見つけ、近くに呼んで「たわけ者」と髪型の注意をしたという記録もあります。年老いても目が良かったのか、あるいは老眼ゆえに遠くがはっきり見えすぎてしまっていたのかわかりませんが、興味深い逸話です。家康は特に髪型にはこだわりがあったのか、徳川家中の若者は、家康が好む昔風の髪型に統一させられてしまったともいいます。これは単なる家康の「趣味」の話というより、その後も江戸時代の武士たちが巷で流行の髪型・ファッションを気軽に楽しむことができなくなっていった状況との関連性を考えさせられる内容であるようにも思われます。
このように最新のファッションには冷淡な態度の家康でしたが、中年以降の彼は自力でふんどしすら着用できないほどに肥満してしまった食いしん坊なので、食べ物の流行チェックには余念がなかったようです。家康の死因として「鯛の天ぷらを食べすぎた」または「鯛の天ぷらにあたった」という逸話が有名ですが、信頼できる史料によると、家康が口にしたメニューは「鯛の天ぷら」という言葉から想像するよりももっと豪華な代物でした。
元和2年(1616)1月21日、駿河田中(現在の静岡県藤枝市)で鷹狩りを楽しむ家康のもとに、京都で呉服商を営む茶屋四郎次郎(三代目)が訪ねてきました。家康は、この三代目四郎次郎がお気に入りで、田中城で親しく語り合う時間を持ちました。若い男の服装や髪型が気に入らないのは、(現代でもよくあるように)自分にとって一番よかった時代で服装や髪型などの趣味が固定化される現象に近いのではないかと筆者は見ていますが、それ以外においては家康は大の「新しいもの好き」でした。好奇心旺盛な家康は「近頃上方にては、何ぞ珍らしき事はなきか」――最近、関西で流行中の珍しいものはないか?と四郎次郎にわざわざ聞いているのです。