秀吉が康政の首に多額の懸賞金をかける逸話もドラマに登場するかもしれません。『常山紀談』によれば、秀吉は、康政の首を取った者に十万石の地を与えるとのお触れを出したとあるのです。しかし、小牧・長久手の戦いの和議が成立した後は、秀吉は康政への態度を180度転換し、家康に対する康政の忠節を褒めたたえたうえに、朝廷との間を取り持って「従五位下・式部大輔」の官位などが康政に与えられるよう手配しました。敵の秀吉ですら、康政の能力を高く評価していたことがうかがえます。第31回では康政が自分のことを「家柄のよからぬ武家の次男坊」と話していましたが、かつては本当にそういう立ち位置だった康政が、一度は首を狙われた秀吉からの引き立てにより、徳川家臣団の中でも名実ともに重鎮になっていったというのは興味深いですね。
しかし、小牧山城の戦いにおける康政の一番の活躍といえば、やはり彼が作らせた「謎の堀」が、戦の勝敗を決めることになったことだと思われます。小牧山城は永禄6年(1563年)に織田信長が築かせた城で、数々の堀、城郭、曲輪(くるわ)に守られた堅牢な城として知られました。しかし、完成から4年後、信長は岐阜城に拠点を移したので、実戦で使われることのないままその後は放置されていたのです。ドラマでも「古くて使いものにならんのでは?」と言われていましたね。家康はこの城に入り、一説に8万とも10万ともいわれる秀吉の大軍を迎え撃つべく、そこに本陣を置くことにしました。
対する秀吉は、第31回の「紀行」にも登場した犬山城に入るわけですが、その南方に位置する小牧山城までわずか1里半(約5.85キロ)で、徳川・織田連合軍が1.5万、多くても数万程度しか兵力がないこともあり、秀吉の陣取りは家康にプレッシャーをかける意図があったと推測されます。
しかし榊原康政は、小牧山城の周辺にさらに大規模な土塁や堀を短期間(ドラマでは「わずか5日」)のうちに築かせ、その早業に驚いた秀吉方の池田恒興(いけだ・つねおき)や森長可(もり・ながよし)らは無謀な攻撃に打って出てくるのですが、すぐさま討伐され、敗走しました。