『御実紀』によると、そこにわずかな手勢の本多忠勝が無謀な攻撃を仕掛けたそうです。小牧山城の留守居役だった忠勝ですが、「このままでは殿(=家康)が危ない」と立ち上がり、「忠勝一人でも長久手に馳せ参じ、討ち死にしよう(=私一人でも、討ち死に覚悟で戦う)」といって、他の留守居役の同意を得てわずかな軍勢を率いて出発、長久手方面に走り、秀吉率いる数万もの大軍に龍泉寺川の南方あたりで会敵します。

 普通ならば怯むほどの戦力差でしたが、忠勝は「ここで秀吉軍の進軍の邪魔をすれば、殿も軍勢を立て直す時間が少しでも生まれるはずだ」と言って、鉄砲をいかけさせました。秀吉はびっくりして、「あの者を知っているか?」と家来たちに尋ねたところ、稲葉一鉄という武将が「徳川随一の勇士・本田平八です」と答え、それを聞いた秀吉は忠勝の武勇と忠誠心に感激して涙を流しながら「私は彼ら主従(=家康と家臣たち)を最後にはわが味方に引き入れ、家臣にしようと思うので、1本でも矢を射掛けたりするな」と攻撃を制止させたといいます。忠勝は秀吉の意図に気づき、下馬して馬に川の水を飲ませるなど悠々とした態度を見せたので、「秀吉はその(胆力のある)挙動に感心」さえしました(『御実紀』)。

 その後、小幡城で家康と忠勝は合流し、家康は忠勝の顔を見て本当に嬉しそうな表情をしたそうです。しかし、秀吉の軍勢が想定以上の規模だったので、この城では守りきれないという判断を下し、夜半、忠勝に殿(しんがり)をあずけて小幡城を脱出した家康たちは小牧山城に帰還しました。そして秀吉は、家康に出し抜かれたことを朝になって知ったそうです。

 『御実紀』の記述を要訳すると、この時の秀吉は溜息をつきながら、いかにも感服したという表情を作って、「家康殿こそ日本一の弓取りだ」と認めたのだとか。このとき、秀吉は「そんな名将・家康殿をも、わが家臣にする策はすでにこの胸の中にある!」と、味方の諸将に向かって上機嫌で宣言したという話まであります。さすがにこれは自分の権威をこれ以上落とさないためのハッタリ、虚勢であったとは思われますが、おそらく秀吉なら実際にそのような“演技”を見せたような気はしますし、芝居がかった言動を好むドラマの秀吉がそのようなセリフを言う場面は容易に想像がつきますね。