明智光秀が信長を打倒した本能寺の変。天正10年(1582年)6月2日に起きたこの事件は、当時の日本の勢力地図を大きく塗り替えました。しかし、なぜか光秀を動かした「真犯人」が影にいるという見方は根強く、朝廷説、足利義昭説、秀吉説など、多くの黒幕の存在が噂されてきました。その中で、家康黒幕説も古くから存在していたのです。根拠とされるのは、明智光秀の配下の本城惣右衛門という武将が寛永17年(1640年)に筆記、もしくは口述させた『本城惣右衛門覚書』などの史料です。ただ、これは当時すでに年齢が80代以上になっていたと考えられる本城(生年不詳)の回想ですから、信憑性には疑問はあります。

 それでもこの本城の回想には興味深い点があります。たとえば、明智配下の中堅武将である本城ですら、本能寺に攻め入る際に「誰を討ち取れ」などの目的や具体的な情報は聞かされておらず、ただ「本能寺に攻め入れ」とだけ指示されていた点です。そして本城は攻撃対象がまさか信長だとは思いもしなかったようです。ターゲットは「いゑやすさまとばかり存候(ぞんじそうろう)」……光秀さまが出す命令なら「家康を討ち取れ」というものだろうと思い込んでいたというのですね。

 このあたりの解釈は複雑になるので、また後日お話ししましょう。もしドラマが「家康黒幕説」を採用するのであれば、信長を恨んだ光秀(酒向芳さん)は本能寺に攻め込んだが、すでに家康が信長をひそかに始末しており、後からやってきた光秀はまんまと犯人の容疑をなすりつけられる……というように描くのかもしれません。

 次回のあらすじによると、〈家康たちは信長に招かれ、安土城へ。だが酒宴の席で、家康は供された鯉が臭うと言いだした。信長は激高し、接待役の明智を打ちのめし、追放する〉とあり、家康の発言によって、光秀は面目を失ったばかりか、信長のモラハラ・パワハラに晒されるようです。