そんなことないんだよ。交通遺児でも施設育ちでも中卒で社会からドロップアウトしても、明るく元気に生きてる人はいくらでもいるんだよ。
今回のラスト、児相が迎えに来て退院していく詩ちゃんを、アユはまるで連行されていく死刑囚を眺めるような目で見ていました。
マキちゃん似の女の子が児相に連れていかれて、かわいそうだ。そういうシーンです。
『おむすび』は段取りの不備によってさまざまな矛盾を生み出してきたドラマでしたが、そうしたシナリオの技術面よりも、今回のように人の不幸や悲劇を記号化して展開に利用するという作劇の倫理面で大きな問題を抱いていた作品だったと思います。
与える側であり続けたいという欲望
結さんもアユも、徹底的に詩ちゃんに「与える」側として描かれました。与えれば、相手が心を開く。これも『おむすび』に通底する傲慢な思想のひとつです。
「なんで、私なんかにこんなに優しくしてくれるの?」
詩ちゃんは問います。
「だって、詩ちゃんに生きとってほしいんやもん」
それが結さんの答えでした。
「私は、詩ちゃんに生きとってほしい。やけん、食べり」
これで詩ちゃんは完落ちしてブドウを食うわけですが、おまえ誰だよって話なんですよ。結さんの「生きとってほしい」という言葉が、ここまで絶大な効力を発揮してしまう理由がない。
こういうことをやるから、『おむすび』は「管理栄養士のドラマ」から離れていってしまうんです。結さんアゲにこだわるあまり、問題解決の方法における属人性が強くなりすぎている。
「なんで、私なんかにこんなに優しくしてくれるの?」
この問いに対する「管理栄養士のドラマ」的な模範回答は「仕事だから」です。「生きとってほしい」のなんて当たり前で、食えるメニューを考えるのも当たり前、その上で、結さんの管理栄養士としての専門的な知識と哲学で解決を図るのが「管理栄養士のドラマ」であって、そのエピソードを創作するために作り手は取材をするんです。「自分がつわりのときにブドウ食えたからおまえも食えるだろ」なんて理屈は、いくらなんでも乱暴すぎるよ。