この事件をどのように解釈するかはさまざまだと思いますが、ひとつの印象として、京都方がまとまっていなかったように感じます。頼茂の事件が起きた際、すでに上皇と義時の間には深刻な不和が生じ始めていました。勝ち気な上皇なら、鎌倉との戦が将来あるかもしれないと考えていてもおかしくはなく、であるならば特に頼茂は手元に温存しておくべき人物です。鎌倉幕府からの出向者であるだけでなく、名のある武士・源頼政の孫にあたる頼茂こそ、本来ならば北条義時追討軍の先陣に立つべき存在だからです。上皇が頼茂を味方につけていれば、鎌倉を裏切って京都方につく武士たちも増えていたでしょう。しかし、その頼茂が(上皇の集めた)西面の武士たちの手で討たれたのなら、「もし幕府を見限って京都方についたとしても、理由をつけて自分も殺されるのではないか」と鎌倉の武士が訝んでも致し方ないでしょう。

 なぜ源頼茂が粛清されねばならなかったかは歴史の謎であり、これを説明する定説はありません。頼茂が次の鎌倉殿になろうと画策していたことを後鳥羽上皇が咎めたという説もあれば、上皇が秘密裏に行っていた北条義時を呪詛する儀式を頼茂が知ってしまったからという説もあります。源頼茂が戦死した後、後鳥羽上皇は祈願所に使ったとされる最勝四天王院という寺をわざわざ潰させているという不可解な動きを見せており、何らかの裏の事情があったことは十分に推測できるのですが、それと頼茂との関係も謎です。ドラマにも源頼茂は登場しますが(井上ミョンジュさん)、この事件がどのように描かれるか楽しみですね。

 京都方の事情をさらに説明すると、上皇の皇子である土御門上皇をはじめ、後鳥羽上皇に近い皇族にも鎌倉との戦に反対の姿勢を取った者がいたことや、他にも少なからぬ数の公卿たちが反戦派だったという事実があるというのも興味深いところです。

 このように京都方にはさまざまな敗因があったと考えられますが、さらに付け加えるならば、史実でもかなり“オレ様”式のワガママ御仁だったらしい上皇のカリスマの乱れ、あるいは衰えも指摘できるかもしれません。たとえ、鎌倉方の兵力が実際には『吾妻鏡』がいうような19万に及んでおらず、その10分の1だったとしても、鎌倉から京都に向かって進軍するたびに兵の数は膨らんでいったでしょうし、人を巻き込むそのパワーの源が、鎌倉幕府の実質的な四代鎌倉殿・北条政子のカリスマにあったと考えるのは間違ってはいないと思われます。15世紀のフランスに現れ、屈強な男性たちを率いてイギリス軍に逆転勝利した「救国の乙女」ことジャンヌ・ダルクのように戦場に自ら立つことはなかったにせよ、史実の北条政子もジャンヌに負けない“ヒロイン力”を発揮していたのかもしれません。