ただ、政子は「実質的な四代鎌倉殿」と存命中から考えられていてもおかしくない存在ですし、そんなイレギュラーな女性だからこそ、名実ともに型破りなことをやってのけても許されるし、不自然ではない気がしてなりません。ドラマのように政子は自ら声を上げ、あるいは御簾の外にも出て、史実でも御家人たちに朗々と訴えかけたのではないでしょうか? 裏を返せば、鎌倉殿不在の幕府においては、それくらいインパクトのある行動を政子が行わねば、御家人たちはきっと気弱になって、後鳥羽上皇の権威に屈していたかもしれません。

 「承久の乱」における京都側の敗因のひとつが、上皇の権威を高く見積もりすぎたことは指摘されていますが、「北条義時を討て」という院宣が鎌倉をパニックに陥れていたというのもおそらく事実です。しかし、『吾妻鏡』の記述によれば、政子の演説効果はその場にいた御家人たちだけでなく、噂で伝え聞いただけの地方の御家人たちにもかなりあったようで、最終的には鎌倉方の兵数は総勢19万にも膨れ上がりました。京都方はその圧倒的な数によって、あえなく押しつぶされてしまったのです。

 もっとも、19万はかなり盛ったオーバーな数字と考えられ、実際は10分の1以下だったのでは、とする研究者もいますね。上皇方には、ドラマにも登場している三浦義村の弟・胤義が鎌倉を裏切って、京都方について戦っています。しかし、こういう寝返りは上皇たちが期待していたよりも大幅に少なかったのです。

 朝廷のもうひとつの敗因としては、味方の足並みを揃えることができなかった点も指摘できるかもしれません。その兆候は、三寅が鎌倉に下向した直後の承久元年(1219年)7月に起こった事件に見られます。鎌倉幕府から京に出向し、代理守護として上皇に仕えていた源頼茂(みなもとのよりもち)が、「なぜか」上皇の命で西面の武士たち(=上皇が鎌倉に対抗するべく集めた御所内の武力勢力)から攻められ、討ち死にしたのです。源頼茂は御所内の仁寿殿に立てこもって戦ったので、御所の他の建物までが焼失する事態を招き、上皇を嘆かせました。