しかし寅の刻といえば、本当は午前3~5時です。ドラマでは、陰暦12月(西暦でいえば1月後半)の早朝とは思えない明るさの中での出産シーンでしたし、その後の於大の方と家康の父・松平広忠(飯田基祐さん)の会話で、「本当は卯年生まれでは?」という広忠に於大の方が「卯年ではいけません」といって、「何日か早く生まれたことにすればよいのです!」と押し通そうとしていたことからも、ドラマの家康も実際には「寅の年、寅の日、寅の刻生まれ」ではないという設定のようですね。

 史実の家康も、自分は「寅の年、寅の日、寅の刻生まれ」ではないという認識で生きていたことが、慶長8年(1603年)に自筆した神仏への願文の文面からも明らかです。神仏への自己紹介として、自分は「日本国征夷大将軍(中略)従一位右大臣源朝臣家康」で、年齢と生年を「六十一歳癸卯年」と書いているので、寅年ではなく卯年だったようです。しかし、彼の誕生については、天文11年12月26日、つまり「寅の年、寅の日、寅の刻生まれ」とする「公式情報」のほうが強くなってしまっていて、はっきりとしたところは現在ではよくわからないのです。実際には天文12年(卯年、1543年)の年始くらいには生まれていたのではないか……と推測するしかありません。

 また、家康の幼名である竹千代は、父・広忠が天文12年2月26日の連歌会で詠んだ句にちなんだとされていることから、その前後に生まれたのではと考える人もいます。内藤佐登子著『紹巴富士見道記の世界』(続群書類従完成会)では、「父広忠がその名を称名寺住職其阿に依頼」し、頼まれた其阿は、広忠が連歌会で詠んだ歌の一部である「園のちよ竹」から「竹千代」という名前を考えついたとしています。しかし、こうした逸話は称名寺の「寺伝」であり、系図を見る限り、家康の何代も前から松平家=徳川家の嫡男の幼名が「竹千代」であることから、松平広忠の長男にその名が付けられたのも、ただの家の伝統であったと考えるほうがもっともらしく、それゆえ広忠の歌を根拠に家康の誕生日=2月26日前後とする説は、筆者にはあまり説得力が感じられません。