家康の生きた戦国時代末期~江戸時代初期では、彼自身が神仏への願文を残したことからも明らかなように、スピリチュアルな要素が日常生活全体に浸透していました。それはつまり、生年月日を不用意に公開していると、悪意をもった他者から呪詛される可能性もあったということです。家康の正しい生年月日がわからなくなってしまったのは、このあたりの事情も関係しているのでしょう。

 少々脱線しますが、家康の孫・家光の誕生日も、彼の母親のお江の生前はなぜか秘匿され、家康時代から徳川家のブレーンであり、家光の側近でもあった(金地院)崇伝という高僧ですら、なかなか教えてもらえなかったという事実があります。

 家光の誕生日(慶長9年〈1604年〉7月17日)が伏せられた背景は一説に、お江が家光を出産したとき、俗に「十月十日(とつきとおか)」とされた妊娠期間に満たない早産だったため、お江が家光の生母ではないと考える人々が当時存在したらしく、お江はそれを知って気分を害し、家光の正確な誕生日を明かさなかったのでは……といいます(福田千鶴著『江の生涯』中公新書)。(金地院)崇伝が家光の誕生日を知ろうとしたのは、ただ家光の幸せを祈るため、誕生日の祈祷をしたかっただけなのですが、お江の生きている間は、家光と春日局が正確な誕生日を明らかにはしないという彼女の意思を固く守ったので、崇伝が知ることは叶いませんでした。