学生時代に偶然読んだ著者が精神科医の神谷美恵子先生。戦後まだ不治の病とされたハンセン病の精神科医として、瀬戸内海は長島愛生園で尽力されました。先生は当時としては晩婚でしたが、理解ある夫君に恵まれ、息子さん二人が誕生。良き妻・良き母として日々懸命に生きておられたのです。その一方、若い頃から自分の使命としてハンセン病患者のために尽くすことを心の中に抱き続けました。まだ家電など十分ない時代、ましてや女性が働くなど白い目で見られるようなころでした。

お子さんの病気の薬代にと、得意のフランス語や英語の指導もされています。しかし、心の中では一体いつになったら自分はハンセン病の仕事につけるのかと焦っておられました。その苦悩はみすず書房刊行の先生の全集に記されています。

中でも私の中で印象に残っているのが、1954年6月13日の日記です。

その日、先生は外出先からの帰路、H夫人という方にたまたま会い、道端で話をしました。しかし、先生はその日の夜、日記にこう記しています: 「彼女のいや味が心にひっかかってねむれず、私は悪い母だろうかと思い続ける。」(p105)

この苦しみはさらに翌日に持ち越され、6月14日には、 「オーノー〔懊悩〕続く。出来る範囲でもっとよい母になろうと決心す。」(p106)

と書かれているのです。私が想像するに、当時はまだ子どもを置いて女性が仕事をするなど考えられない時代でしたので、H夫人がそこを突いて嫌味を述べてきたのでしょう。

先生は数日間苦しみ続けます。やがて6月23日にこう記しました: 「あれから子供のためにもっとつくそうと思って努力をつづけた。しかしこんな事を負けん気でやる事のおろかさよ。もし今の私の道が使命と信ずるならば正々堂々とやればよい。子供のためには出来るだけの事をする。しかし、出来ない事は『運命』と考えてあきらめ、わびるより仕方ないではないか。」(p107) (以上、みすず書房刊「神谷美恵子著作集10 日記・書簡集」より)

自分自身が子どものために心を砕いている。そのことを誰よりも自覚しているのは母親である当人、つまり神谷先生自身です。しかし、「外野」というのは世の中の常識や自らの勝手な価値観を振りかざして容赦なく踏み込むことがあります。H夫人のようにあからさまな「嫌味」の形もあれば、悪意なき「余計な一言」で当人を苦しめることもあります。

戦後および高度経済成長期と比べ、今では世の中も便利になり、法制面でも男女が平等で働ける時代となりました。男性も育児休暇をとれるようになり、働き方も柔軟性が出てきています。堂々と自分の特技や実力を伸ばして働ける時代に今の私たちは生きているのです。

けれども、何か一つが達成されると別の問題が出てくる。それが世の中であり人生なのでしょう。まさかの感染症が世界的にまん延したのもそうですし、軍縮・平和外交と言われていた国際社会が一転して緊迫化していることも挙げられます。新たな価値観、新しい生き方、自由の享受と同時に、別の課題も浮上してくるのです。

そのような中で自分らしく、ぶれない自分の軸を持ち続ける大切さこそ、いつの時代においても共通して求められると私は思うのです。先生は「『運命』と考えてあきらめ」と記しています。しかし、それは「あきらめ」ではないと私は考えます。自分を保ち、次世代につないでいくための達観なのではないでしょうか。その達観を大事にして、目の前の仕事に、家庭に、社会に対してできる限りのことをしたいと私自身は考えています。

(2022年11月15日)