【プロフィール】エルビーニア ユリア

幼少期をマレーシアやシンガポールなどの東南アジアで過ごす。その後10歳で日本に帰国、大学院を卒業後、いくつかの会社でコーディネーター、翻訳者、通訳者として勤務。現在はフリーランス通訳者として愛知県を中心に活躍中。

フリーランス通訳者「一発勝負の世界に魅せられて」
(画像=『HiCareer』より引用)

工藤:本日はよろしくお願いいたします。まずエルビーニアさんと英語との出会いから教えていただけますでしょうか?

エルビーニア:物心ついた時は英語に囲まれていました。生まれは静岡ですが、両親の仕事の関係で生後5ヶ月で海外に渡りました。母が私を妊娠しているときに父にマレーシア駐在の令が出て、父だけ先にマレーシアにわたり、私が飛行機で移動できる月齢まで待って母は私を連れて父のもとに向かったそうです。マレーシアはイギリスの植民地だったということもあって両親は英国系の幼稚園に私を入れてくれました。物心ついたときにはブリティッシュイングリッシュやマレー語や華僑の人たちの中国語に囲まれて、家では日本語の環境でした。

工藤:最初からグローバルな環境で育たれたということですね。その後はシンガポールに渡られたんですよね?

エルビーニア:6歳までマレーシアにいて、その後10歳までシンガポールで過ごしました。今は自信を持って日本語が母国語だと言えますが、当時の第一言語は英語でした。将来日本に戻ることを考えてシンガポールの公文式の教室や通信教育で日本の小学生と同じ勉強をしていましたが、私の日本語はかなり怪しかったと思います。当時の日記を読み返すと日本語と英語が入り混じっていますし、英国系のインターナショナルスクールに通っていたのもあって、英語のほうが身近でした。

工藤:小学校4年生で名古屋に戻られていますが、ご苦労はありましたか?

エルビーニア:当時名古屋には帰国子女を受け入れている学校が1校ありましたが、熱烈な歓迎にすごく心を打たれ、地元の小学校を選びました。しかし最初は授業に全くついていけませんでした。国語の教科書も全部は読めず、母に振り仮名を振ってもらって勉強しました。

工藤:大学ではスペイン語を専攻されていますが、なぜスペイン語を選ばれたのでしょうか?

エルビーニア:母の影響です。母もスペイン語学科を卒業していますが、シンガポールに駐在していたときにスペイン語を話す仲間をよく家に呼んでお茶会をしていました。私は英語も日本語も苦労をせずに学んできたので、全く違う響きがするスペイン語が印象に残っていました。

工藤:在学中にスペインに8ヵ月留学されていますね。

エルビーニア:はい、スペイン語の文法をしっかり勉強して留学しましたが、ネイティブのスペイン語はスピードが速くて最初は聞き取れませんでした。ただ留学して2、3か月経った頃、朝大学に行くバスに乗っていたら、いつもかかっているラジオの内容が全部わかってすっと頭の中に入ってきました。それまでは学校で言われていることは理解できる、教科書も理解できる、でもテレビとかラジオでネイティブが話していることはなんとなくしかわからないっていう状態だったんです。それが突然まるで稲妻に打たれたように理解できるようになって、その瞬間は今でもすごく鮮明に覚えています。苦労して学んだ外国語を我が物にしたと思えた瞬間でした。

工藤:英語をマスターしたら、次の言語はよりマスターしやすいと聞いたことがあるのですが、スペイン語も入りやすかったのではないでしょうか?

エルビーニア:そうですね。外国語をマスターするコツは、最初にその言語で考えるということだと思います。ただ最初はいきなりスペイン語で考えるのはハードルが高い。その際に、日本語ではなく英語で言いたいことを思い浮かべてスペイン語に訳すほうがよりスムーズです。ある程度英語の基礎があって、その上でスペイン語を学ぶ方が楽だったのかも知れません。

フリーランス通訳者「一発勝負の世界に魅せられて」
(画像=『HiCareer』より引用)

工藤:大学卒業後は大学院に進まれていますね。この時はまだ通訳者を目指していた訳ではないですね。

エルビーニア:大学院では国際開発学といういわゆる将来的には国連など国際機関の職員や、外務省、あとは国際NGOといったところに就職する際に役に立つ勉強や研究をしていました。将来は国連で働きたいという夢を持っていましたが、今の主人になるんですが大学院のクラスメートとスピード結婚し、在学中に長男が生れました。いつかは国連で仕事をしたいと思いながらも、一旦その夢は据え置きになりました。

工藤:大学院と育児の両立は大変でしたか?

エルビーニア:そうですね。最初は学業と育児、大学院を卒業した後は、社会人と育児の両立でした。子供を保育園に預けながら仕事をしていました。今思えばとても理解のある職場で、一度退社をして保育園に息子を迎えに行って、ベビーカーを押して会社に戻って夜の会議に出たこともあります。

工藤:産休育休も取られなかったんですか?

エルビーニア:当時はあまり一般的ではなかったので、1人目の子に関しては取ってないです。

工藤:最初の会社では通訳の仕事もしていらっしゃったんですか?

エルビーニア:私が働いていた会社は成長過程にあるベンチャー企業で社長もお若い方でした。挑戦したいことは、とりあえずやってみようという社風で、通訳の仕事にも挑戦しました。しかし実際にやってみると、英語ができるだけでは通訳は出来ないと痛感しました。新卒でしたので社会人としての経験も浅く、世の中の大きな流れも理解できていませんでした。日本語で話されている内容も理解できない状況もありました。通訳という職業は言葉への理解だけでなく、プラスアルファ話のテーマとか業界の知識が不可欠だと思いました。

工藤:お子さんも小さかったしもう1日フル回転ですよね。

エルビーニア:若かったから何とか両立できたのだと思います。2人目の出産の時は通訳・翻訳エージェントでコーディネーターとして仕事をしていましたが、きちんと産休はいただきました。

工藤:エルビーニアさんは通訳コーディネーターを尊重していただけるというか、寄り添ってお仕事をされている印象があったのですが、それはご自身がコーディネーター経験があるからなんですね。エージェントの気持ちをよく分かっていただけるので、とてもありがたいと思います。通訳学校には通われたのでしょうか?

エルビーニア:いいえ、通訳学校で学んだ経験は一度もありません。私はコツコツ勉強するタイプではなくて、特に決まったルーティンがあるわけではありません。夫婦で映画を見るのが好きなので、時々主人に字幕がない日本映画を同時通訳したりしていました。またコーディネーターをしている時も、当時の自分の実力に見合った現場に行かせてもらい、車の生産ラインでの通訳だったり、イベントでの通訳だったりと経験を積ませてらいました。

工藤:翻訳者ではなく通訳者の道を選ばれたのは何故ですか?

エルビーニア:性格的に一発勝負が好きなんだと思います(笑)。本当はコーディネーターの仕事を続ける予定だったのですが、主人が大学で博士号を取った後フィリピンに帰りたいと言い出しました。私はフィリピンに骨を埋める覚悟で仕事も辞め子供たち2人を連れて移住しました。私自身小さい頃からマレーシアやシンガポールに住んでいた経験もあり、フィリピンも同じ東南アジアだし、英語も使えるので気持ち的に何か大きな障壁とか障害を乗り越える必要はありませんでした。しかしまた主人がやっぱり日本がいいと言い出したんです。多分日本ほど日々の生活が何事もスムーズで快適な国はほかにないと思ったのでしょう。結局7ヶ月足らずで家族でまた日本に戻ってきました。

工藤:本当にご夫婦仲がいいですね。

エルビーニア:そうでしょうか?日本に戻る時は東京でもよかったのですが、夫が名古屋の地下鉄の路線図を全部覚えたのに今更他のところに行く気はないって(笑)それで名古屋に戻ってきました。私は主人とは英語、子供とは日本語で。主人と子供たちは怪しい日本語と英語でコミュニケーションしています。たまに家にいながらにして通訳を頼まれることもあり、私は高いわよとか言ったりして(笑)。

工藤:食事は朝昼晩作ってらっしゃるんですか?

エルビーニア:作る日もありますが、仕事が忙しい日は同じ町内に住んでいる母にお願いすることも多いです。