なんか「自由」がどうこう言ってたな。これガーリーズの閉店セールSNS戦略のときにもピーターが急に何のつながりもなく「自由」って単語を出してきてウザかったんですけど、「自由」って言葉はフィクションのセリフとして、そんな簡単に使っていいもんじゃないんだよ。今まで見てきたドラマや映画に登場した「自由」ってセリフのすべてを蔑ろにされた気分になるんだよ。思いのほか、私自身が個人としてフィクションにおいても人生においても「自由」という単語にすごく重みを感じていることを再確認できたよ。それはありがとう。
まあそんでただ『おむすび』では、愛子がイチゴやりたいくせに「イチゴ」の「イ」の字も言わなかったズルさと、やっぱり愛子&聖人の馴れ初めの不健全さだけが印象に残ってる。
腕が鳴らないのかな、と思うんですよね。脚本を書く上で、ここでパンチラインを残して、見ている人の記憶にずっと残るようなセリフを書きたいと思わないのかな。かといって人物を配置して思いのままに動かすことに快感を覚えている感じもしないし、もちろん自身の魂の叫びや脈動を物語の形にして世間に問うてるわけでもなさそうだし、じゃあ、なんでノの字はこの仕事してるんだろう。どこにそのモチベーションがあるんだろう。マジで「橋本環奈と仕事してる自分」で満足してるだけなんじゃないか、そんなのを半年も見せられたんだとしたら、あまりにも空しくないか。
翔也がいます、翔也がいるのです
家族会議でも一言も口を開くことが許されなかった翔也。昨日の佳代さんからの手紙にも、翔也の名前はありませんでした。
こいつ、聖人と愛子が揃って糸島に移住すると決断した意味をわかってるんでしょうか。おまえがヨネダの家賃払うんだぜ。おまえにも人生があるんだぜ。
NHK朝の連続テレビ小説『おむすび』が主人公周辺にも脚光を浴びせる群像劇だとするなら、ここで翔也に「店はどうするんですか?」というセリフを言わせなかったことについて、いつもの統括さんを小一時間問い詰めたいところだね。