「天才」と持ち上げすぎる危うさ

 そこで、自戒も込めて、“才能”という言葉をチェックし直さなければなりません。いい曲を書くソングライターに出会うと、“天才だ”とか“個性的な才能”といった文言を使いがちになりますが、もしかしたら、こうした言い方自体がマンネリの温床となっているのではないでしょうか? つまり、仕事とその人を同一視してしまうことの危うさです。

 いい曲を書ける技術を持つことは人間の一部に過ぎないのに、過度に褒めそやすことによって、まるで人格そのものまで崇めているように錯覚してしまう。そこで実際に神の視点のような大それた発言をされると、ギャップが生じるのですね。

一つの歯車に自分をおとしいれる

 三島由紀夫は、こうした歪みを予言していました。

<現代では、野球選手やテレビのスターが英雄視されている。そして人を魅する専門的技術の持ち主が総合的な人格を脱して一つの技術の傀儡となるところに、時代の理想像が描かれている。この点では、芸能人も技術者も変わりはない。現代はテクノクラシーの時代であると同時に、芸能人の時代である。一芸にひいでたものは、その一芸によって社会の喝采をあびる。同時に、いかに派手に、いかに巨大に見えようとも、人間の全体像を忘れて、一つの歯車、一つのファンクションにみずからをおとしいれ、またみずからおとしいれることに人々が自分の生活の目標を捧げている。>
(『葉隠入門』 著 三島由紀夫 新潮文庫 p.20)

優れた作曲家だからこそ

 実際、米津玄師は優れた作曲家です。“どれも同じ曲に聞こえる”という評価は、他ならぬ職業人としての技術の確かさの証明でもある。“くだらない”にたどり着いた内省は、作詞家として真摯にモチーフを追求してきたことを示している。

 皮肉なのは、そうすればするほどに高性能な歯車として地位を確立できてしまうことなのですね。

 いい音楽を作ることと、人生における解決策のようなものを提示することはイコールで結ばれないはずなのに、なぜかそれが可能なような気がしてしまう。そのふたつをつなげる曖昧な言葉こそが、“才能”というやつなのです。

行き止まりにぶち当たる前に

 だとすれば、「POP SONG」での破裂寸前の自我は、“才能”を過度に持ち上げられつづけたことによって肥大したと言えるのかもしれません。

 このままの作風を貫けば、早晩行き止まりにぶち当たり、八方塞がりになってしまうでしょう。というわけで、ここはひとつ、心を鬼にして言わせていただきます。

 それ、もうつまんねえぞ。

<文/音楽批評・石黒隆之>
石黒隆之
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。
『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。   
『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。
いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。
Twitter: @TakayukiIshigu4

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