長谷川泰子の回想を村上護という文芸評論家が口述筆記でまとめた書物があると知り、読んでみた。タイトルは映画と同じ『ゆきてかへらぬ 中原中也との愛』。1974年に講談社から刊行され、2006年に角川ソフィア文庫から『中原中也との愛 ゆきてかへらぬ』のタイトルで復刊されている。

 当時京都で暮らしていた中原中也が長谷川泰子と同棲を始めたのはまだ中原が中学生の頃。当時から中原中也はもう女郎買いなどしていたというから、その早熟さには驚きである。中学生といっても旧制中学なのでいまの中学生の年齢とは違って、同棲を始めたのは17歳。長谷川泰子は3歳年上で20歳だったようだが、それにしても若い。

 きっかけは所属していた劇団がつぶれ、行くところがなかった泰子に中原が「ぼくの部屋に来ていてもいいよ」と言ったことだったという。代々開業医の名家の生まれだった中原は実家から仕送りをもらっていたようである。のちに泰子の弁として、中原との最初の経験は「強姦されちゃったようなもの」だったと雑誌に書かれたそうだが、『ゆきてかへらぬ』ではその経緯をこう説明している。

「ほかの言葉でうまくいえなくて、強姦されたといっちゃったけど、考えてみれば男と女がひとつ部屋で寝泊りしていたのですから、強姦されたというのはおかしいし、肉体を求められても仕方のなかったことかもしれません。私はその頃はまだ性に無頓着で、下宿においてやるよという親切心だけを信じて、そこへ行ったんですから、中原の求めるままに、身体をまかすのはつらく感じました。自分の生活があまりにみじめに思えて、気の滅入ることが多くありました。」

奇妙な三角関係で結びついていたのは男同士かも?

 その後、上京した中原と文学について議論する相手として意気投合し、中原の家に出入りするようになったのが小林秀雄だった。やがて小林は中原の不在時にも家に来るようになり、小林と泰子は中原に内緒でふたりで会うようになる。小林は泰子にこんなことを言ったという。