しかし、その兼輔も従五位の下の官位を得られたのは延喜2年(902年)、数え年で26歳のときでした。道長が従五位の下になったのが15歳でしたから、藤原北家の中でも「本流」と、この時点では「末流」とまではいわないにせよ、「それ以外」の家の出身者では出世速度がかなり異なったことがわかります。
名門の生まれであること、そして、現在でも有力な親族がいるか――それが貴族たちの出世レースに参加できるかどうかの最低条件です。そこに本人の容貌の良さや資質などまで影響してくるため、「親ガチャ」の勝者にして、すべての点で本当に恵まれた、ほんの一握りの者しか成功できない非常に厳しい世界だったことがわかります。
紫式部の血統の特徴としては、文学の才能に恵まれた人が目立つ点が指摘できるでしょうか。彼女の曽祖父・兼輔には『聖徳太子伝暦』という著作があったという説が(真偽はともかく)昭和初期から伝えられています。また、『小倉百人一首』にも「中納言兼輔」の名で「みかの原 わきて流るる 泉川 いつ見きとてか 恋しかるらむ(意訳:みかの原を2つに分けるように、湧いて流れる泉川のごとく、私の心に恋する気持ちが湧き出る。過去に出会っていたと思うほど、あなたには激しい恋心を懐いてしまうのか)」が選ばれていますね。
兼輔の長男で、紫式部には祖父にあたる雅正(まさただ)も、政治家としては国司になれた程度で終わりましたが、父同様に名歌人として知られました。雅正の歌は『撰和歌集』(日本史上、2番目の勅撰和歌集)に収録されましたし、「歌聖」と呼ばれた伝説的な名歌人・紀貫之との交流でも有名です。
その雅正の次男が、紫式部の父にあたる漢学者の為時ですから、紫式部にいたるまで文学のセンスは脈々と受け継がれていたようです。一方で、6代までは全く同じ血脈だったにもかかわらず、道長には文学的なセンスが遺伝しなかったのは興味深いですね。まぁ、平安時代の貴族社会の暗黙のルールとしては、文学者として大きく名を馳せられるということは、多くの場合、政治的に出世できず、暇を持て余した結果、「余技」で日の目を見られたということにほかならないのですが……。