しかし、夜になったからといって、大軍を率いた秀吉はなぜすぐに小幡城を攻めず、いったん龍泉寺川に留まったのか。あるいは逆に、家康はなぜ小幡城にほど近い龍泉寺川で野営していた秀吉を襲撃しようとしなかったのか……ということを疑問に思う読者も多いでしょう。その理由は、戦国時代特有の外交的な要因があったように筆者は感じます。

 家康が秀吉を襲撃しなかった理由については、幕末に成立した『名将言行録』などに「説明」があります。おそらく当時の学者たちが考えた仮説でしょうが、引用してみましょう。『名将言行録』によると、家康は、後にこの日の戦いのことを振り返り、忠勝、直政、康政らと話をしたことがあるそうです。忠勝は「秀吉の野営を夜襲すべきだ」と強く主張していたそうですが、家康は、秀吉軍を攻めさせなかったことには理由があると部下たちに説明しました。要訳すると、「仮に夜襲に成功したとしても、秀吉は討ち逃すことになっただろう。そうすると、大軍を率いていた秀吉が、何分の1にすぎない兵力の徳川に負かされたことを根に持ってしまい、我々を滅亡させることに執心することになるかもしれない。そうなるとお互いに無益だから、夜襲を止めさせたのだ」という理屈です。先述のように『名将言行録』の史料的な信頼性は疑問が残るところですが、小牧・長久手の戦い当時の家康、そして秀吉の本音に近いところに迫った内容のような気がします。

 秀吉がすぐに小幡城を攻めなかった理由もまた、優秀な家臣たちに支えられた家康が夜闇に紛れて脱出して取り逃がすことになろうことを見越し、万全を期したと考えられます。戦を最高の外交手段とした日本の戦国時代をこうやって振り返ると、本当に興味深いですね。

 なお、榊原康政によって完璧な防御力を備えることになった小牧山城は、小牧・長久手の戦いで直接の戦場になることはなく、さまざまな箇所がよい状態のままで現存しており、江戸時代には徳川家康が運命を切り拓いた場所として神聖視されるようになりました。

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