かつて信玄は、嫡男だった義信と決裂し、彼を自害に追い込みました。その後、勇猛果敢だが衝動性の強い勝頼しか武田家を継げる男子はいなくなり、それは信玄だけでなく武田家全体の心配の種となりました。『甲陽軍鑑』には信玄が、自分が亡くなった後について、勝頼の独断ではなく、宿老(=重臣)たちによる合議制で武田家を運営するように遺言していたという一節もあります。
設楽原の戦いにおいて武田軍が徳川・織田連合軍の前に大敗したのは、信長が大量の鉄砲を運用した戦術によるものと説明されることが多いですが、それ以前に、勝頼は信長に挑発され、本来なら退却を真剣に検討すべき段階でも戦闘を続行する選択をしてしまったことが勝敗を決しました。つまり、直接対決に至る前の心理戦において、勝ち負けはほぼ決まっていたともいえます。猪突猛進型で、現代風にいえば「煽り耐性」が低い勝頼の一面を、信長は見事に見抜いていたのでした。先述のとおり、信玄亡き後の武田家は合議制となり、勝頼はワンマン主君として君臨することはできませんでした。勝頼は設楽原の戦いにおいて、自分ひとりで物事を決定できない日々の鬱憤が爆発してしまったのかもしれません。
もっとも、普段の勝頼は冷静な戦略家で、「父・信玄を超えようとしていた」とよく語られるように、武田家の領土を過去最大級に広げたなどの功績があります。それゆえ、彼に主君としての資質がまったくなかったとはいえません。ただ、設楽原の戦いにおける敗因は勝頼の判断ミスが大きいと考えられ、その背景には信長や家康に煽られてカッとなった彼の短気さがあるのではと思われるのです。
では、設楽原の戦いにおける勝頼のミス(の可能性)を時系列順に詳しく見ていきましょう。
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