史実の勝頼には、信玄や武田家の重臣たちの目からすると大将としての器にふさわしくない軽率さが見られたとされます。

 勝頼は17歳で初陣を飾り、勇猛果敢さで知られました。しかし、それは無鉄砲さと紙一重の勇ましさであり、自ら槍を振るって奮戦する勝頼について、信玄が「礼式四郎(=勝頼)(略)無紋に城に攻め上り候、まことに恐怖候」……勝頼はいつものように何の作戦もなく勢いだけで敵の城に乗り込んでいったのでヒヤヒヤさせられた、とぼやいた書状を残しているのが注目されます。

 そのような性格ですから、父を失い、28歳の若さで武田家当主の座を継いでからも、大将であるにもかかわらず、江戸時代の軍記物語に描かれているように、いざとなれば槍を振るって本当に前線に立った可能性もあったと思われます。信玄のライバルの謙信もまさに最前線に立ちたがる軍人タイプだったことで知られていますから、それだけで「大将の器ではない」とはいえないのですが、デンと構えていられないタイプの大将は、家臣たちにとってみれば、尊敬の対象というよりも、むしろ厄介な困り者といったような存在だったのではないでしょうか。戦死でもされたら、家の存続問題に関わりますから。

 江戸時代に編纂された、武田家ゆかりの軍法書『甲陽軍鑑』には、「我が国(=甲斐国)を亡ぼし、(武田)家を破(や)る大将」として、「馬嫁(ばか)なる大将」「利根(りこん、利口)過ぎたる大将」「臆病なる大将」「つよ(=強)すぎたる大将」の4タイプが紹介されています。勝頼については最後の「強すぎたる大将」として批判されていると考えられるのですが、ここでいう「強すぎる」とは、戦が強いのではなく、気性が激しすぎるという意味で捉えてください。