次回のあらすじには〈信長は馬防柵を作るばかりで動こうとしない。(中略)勝頼は攻めかかってくるが、信長はその瞬間を待っていた。3000丁の鉄砲が火を噴く!〉とあり、武田の騎馬隊を信長の鉄砲隊が迎え撃つことになりそうですが、勝頼率いる武田軍が鉄砲など新兵器を軽んじ、「昔ながら」の騎馬隊に固執していたという事実はなく、信玄の時代から鉄砲なども積極的に導入しようとしていたことは有名です。ただ、甲斐国(現在の山梨県)の地理的条件が邪魔し、信玄や勝頼は、信長のようには多くの鉄砲を手に入れることができませんでした。
なお、信頼できる史料とされる『信長公記』や『三河物語』などには、信長が使用した鉄砲の数は明示されておらず、有名な「三段撃ち」についても言及がありません。江戸時代に入って、先行する史料をもとに書かれた小瀬甫庵の歴史小説『信長記』などに、三千丁の鉄砲を三段撃ちで運用したという「設定」が初めて登場しており、これが明治後期の日本の軍部によってまとめられた書籍で紹介されたことで、急速に一般化した説のようですね。
信長が鉄砲隊を活用し、それまでの戦術を変えた戦いとして名高い設楽原の戦い(長篠の戦い)ですが、史実の観点から考察すると、この信長の戦術以上に興味深いところがあります。それは、決戦に至るまでに武田勝頼が数々の「判断ミス」を連発したと考えられる点です。
ドラマでは、父・信玄譲りの智将として描かれている勝頼ですが、史実においても織田信長や上杉謙信から一目置かれる若き実力派でした。特に信長は勝頼の戦い方を熱心に研究したことで知られ、当初は侮っていたものの、次第に彼を高く評価するようになっていきました。しかし、勝頼はそれだけの実力派であったにもかかわらず、設楽原の戦いにおいては、なぜか多くのミスを犯してしまっています。