心理学としての禅から得るもの~思考の節約~
東洋の心理学と言われるのが禅の教えです。禅と言えば、余計なものを削ぎ落とした質素さやシンプルライフを思い浮かべるのではないでしょうか。断捨離やミニマリストのブームも禅の考えからきています。物や生活といった物質的な節約だけではなく、思考や言葉といった非物質的なものも節約するのが禅の考え方なのです。
凡人は不快な感覚を受け、その後憂い、悲しみ疲れる、つまり自らの胸をうつ
という釈尊の言葉があります。
参考:「阿含経典」増谷訳3巻「箭(矢)によりて」(相応部36、6/雑阿含 17、15「箭」)
例えば、人を第1の矢で刺し、次に第2の矢で刺すとすれば、その人は2つの矢を受けることになります。凡人は不快の感覚を受けると(第1の矢)、その後憂い悲しみ、疲れる、つまり自らの胸を打つ(第2の矢)ということです。このように、凡人は2種類の感覚を受けます。それは肉体的な感覚と精神的感覚です。
一方禅の教えを学んだ弟子は、第1の矢で刺すけれど、第2の矢では刺さないのです。彼らは胸を刺されるような出来事が起きた場合、不快な感覚は受けるけれど、その後は何ら憂いず悲しまず疲れません。自らの胸を打って泣きわめくことはないのです。
私たちは嫌な出来事が起こった場合、つらい・悲しいといった感情を抱くや否や、直ちに思考をはたらかせます。例えば「これはあの人のせいだ。あの人がこんなことをしなければこの事態はまぬがれたのに。そういえばあの人は他にもこんなとこがある、あんなとこがある。腹黒い、汚い、許せない!」と、思考を展開させ、一層不快な感情をつのらせてしまいます。
または「こんなはずじゃなかったのに…なぜいつもこうなのか。そういえばあの時もそうだったし思い返せばたくさんある。私はなんて不幸なんだ!」と自分はいつも不幸であると思い込み、次第に憂鬱さを増してしまうこともあるかもしれません。禅では、このような余計な思考を節約して、シンプルに不快な感覚だけを受け取りましょうと言っています。そのためには、今、ここの感情だけをじっくり味わい観察することで、余計な思考を抑える、マインドフルな状態にすることが必要なのです。
今、あなたが抱えている痛み、悩みや不安は、あなたの余計な思考が導き出した第2の矢なのではないでしょうか。
心理学としての禅から得るもの~こだわらない自由~
誰にでも何かしらのこだわりはあるものです。心理学の分野では、拭えないような強いこだわりを強迫性と呼びます。
一般的に言われるこだわりは、自分の意志でこだわっていることを指すでしょう。例えば、あの人はこだわりがあると言うときには、こだわりがあってかっこいいとするニュアンスが含まれている場合が多いです。こだわり抜かれた匠の味を提供する料理人のいる店には、多くの人が惹きつけられます。こだわりがなくなれば、何の面白みもないじゃないかと考えるかもしれません。
しかし、そのこだわりを守り続けるとき、たとえ世の中から多くの称賛を得ることができたとしても、その分自分に犠牲を強いることになるため、多くの問題が出ることがあるのです。また、古くからのこだわりを捨てたときこそ、新たな創造が待っていることもわかるでしょう。
禅ではこだわらない自由を求めます。また同時に、こだわらないことにこだわらないことも説いているのです。こだわることに傾よることもなく、こだわらないことに傾よることもなく中道を行くことが悟りの道を歩くことになるとしていました。
雨受けにザル
ある大雨の日、古い本堂に雨漏りがしはじめました。お師匠さんが何か持ってこいと怒鳴ると、小坊主たちは、雨を受けるものを持っていかなければと、必死に桶を探し回っていましたが適切なものは見当たりません。1人の小坊主はとっさにザルを持って駆けつけました。ザルが雨受けになるなどとは考えられないのに、お師匠さんはこの小坊主さんを大層褒めました。そして後から桶を持ってきた他の小坊主さんたちは、おおいに叱られたのです。
禅の求めるものはこだわらない自由で、こだわることによって生じる迷いも嫌います。雨が降っているところへ何か持ってこいと言われたら、雨を受けるものが必要で、それは桶だと考えるのが当たり前でしょう。しかし、桶、桶、と桶にこだわって右往左往している間にも時間が流れていくのです。実際お師匠さんは何か持ってこいと言っただけでした。その呼びかけに、雨漏りにザルが役に立つのか立たないのかという判断すら入れ込めず、迷いなく無我夢中で行動したその姿勢が禅だと言われています。
心の安定にはこれが必要だ。幸せになるにはこうならないといけない。というこだわりのために、あなたは心の安定も幸せもなかなか手にできていないのかもしれません。