心の時代に~禅でいうとらわれからの脱却~
心の時代に再燃を見せている禅の世界。Appleを生んだスティーブ・ジョブズも禅を愛していたことはビジネスウーマンにとっても有名で、もはや禅の教えをひとつの教養として学んでいる人も多いようです。まずは禅の逸話から、禅でいうとらわれからの脱却をご紹介します。
アニメで有名な一休さんは、とらわれからの脱却に全てを捧げた禅のお坊さんです。一休さんには様々なとんちのエピソードがあります。
このはし渡るべからず
このはし渡るべからずと書かれた看板がありました。一休さんはその看板を見て、端(はし)ではなく、堂々と真ん中を渡って目的地に到着したため、無事ごちそうにあやかれました。橋を渡ってはいけないのだという思い込みにとらわれていると、目的地にたどり着くことはできないし、ご馳走を食べることもできなかったのです。
めでたくもあり、めでたくもなし
元旦の早朝、京の街がおめでたい空気に包まれている中、一休さんはガイコツを結びつけた竹竿を手にし家々を訪れては「ご用心、ご用心」とふれ回りました。正月にガイコツなど縁起が悪いと街の人は眉をひそめます。一休さんは言いました。「人間はいつまでも目がでているわけではない。いずれ皆、このようになるのです」
正月には門松を立ておとそを飲み、無事訪れた新年を祝うことが、古くから伝えられてきたしきたりでした。当然、誰もが正月をめでたい、めでたいと祝います。一方で、正月が来るということは、誰でも1つずつ歳をとる、正月が来るたび死へ近づいているということでもあります。あと何回正月を迎えられるかわからない、生きているうちにいいことをしようではないかという、一休さんのような別の見方があるのです。
私たちの誰もが疑わない一般常識やおめでたいことも、そこにだけとらわれてしまうと、何か大切なものが見えなくなってしまうようです。
禅は常識もまた無常とし、世の中の全ては移りゆくものであり、そこにとどまらないと教えてくれます。そして禅は、禅を信じるなとも説いているのです。禅を信じるということもまた、とらわれなのです。
日々雑多に入ってくる情報の渦の中、あなたが頑なに信じているものは何でしょうか。そしてその信じているものやとらわれのせいで、今の悩みが生じているのかもしれませんね。
心理学でいうとらわれからの脱却
心理学でいうとらわれからの脱却は、3つの心理療法から理解できます。
心理学では、悩みの原因は出来事そのものにあるのではなく、その人の受け取り方によって生じるものと説明しています。心理学の分野でもいくつかの療法として古くから学び継がれてるそのどれもが、とらわれからの脱却を目指すアプローチなのです。
論理療法の心理学
固定観念から解放される心理学のひとつとして、論理療法があげられます。論理療法では、悩みの原因は出来事そのものにあるのではなく、その人の受け止め方・捉え方にあると考えます。
例えば、意中の人に食事を誘ったけれども、断られたという事実があるとします。その時あなたは、断られたのは私に女性としての魅力がなかったからだとか、彼は私のことを好きではないからだと受け取り、落ちこみました。私は愛されない人間なのだと思い込み、以降の恋愛に臆病になってしまいます。
けれども、別の女性が同じ立場にたった時、彼にはもう意中の人がいるのだろうとか、たまたま私がタイプでなかったのだろうと受け取り、特に落ちこむことがないのです。再び違う誰かを好きになっても、臆することなく食事に誘うかもしれません。
このように事実は同じでも、受け止め方の違いで引き起こる感情や結果は違ってくるものです。しかしこの男性が食事を断った理由が実は、女性から初めて誘われて嬉しくてどうしていいのかわからず、つい断ってしまっただけだったとします。女性たちの受け取り方はあくまで本人たちの推論であり、事実とは異なっていたのです。そこで心理学的には、事実と推論を分けて考えます。このように、この世は受け止め方の世界であると言えます。事実はでない思い込みにとらわれて、自ら不幸を作り出していることがなんと多いことでしょう。
論理療法の心理学では、その思い込みは事実なのか、推論なのかと問うことで、固定観念から解放していくのです。
ゲシュタルト療法の心理学
ストレスを軽くする心理学のひとつとして、ゲシュタルト療法があげられます。ゲシュタルト療法は、問題解決を図る際、特定の部分に焦点を当てるのではなく、物事の全体像を捉えていこうとする考え方の総称です。
一部分が欠けた円と、完全な円を見たとき、欠けた円の方が強く印象に残るでしょう。欠けた部分が気になったり、欠けた部分を完成させたくなったりするので、完全な円が目に入ってこなくなるからです。このように人は、欠けた部分に焦点を当ててしまうので、足りないものばかりを見て、足りているものが見えなくなってしまいます。満ち足りていることが多いのにも関わらず、不満ばかりを感じてしまうのもそのためです。相手の気に入らないことだけが目について、あの人は嫌なやつだと決めつけてしまうのもそのせいなのです。
上の図は何に見えるでしょうか。黒い影の顔が向かい合っている図だと認識する人もいれば、中央に黄色い盃があると認識する人もいます。つまり、同じ絵でも焦点の当て方が違えば全く違うものに見えてしまうということです。それは、私たちが認識しているこの世界でも同様です。同じ世界を生きていても、捉え方の違いで全く別のものに見えてしまうということなのです。
ゲシュタルトでは1人称で考えます。「あの人が私を怒らせた」のではなく、「あの人の言動によって私が怒った」と捉えるのです。相手は自分の価値観を語ったり、思うように行動しているだけで、自分が怒る理由はないのです。
ゲシュタルト療法の心理学では、受け取り手がどこに焦点を当てているかが重要になってきます。同じようにアドラー心理学でも、苦しみの原因は自分の内側にあるとして、自分のものの見方に焦点を当てていきます。それまでは、他人に焦点を当てて、苦しみの原因を自分の外にあるという視点に立った考え方でした。アドラー心理学では、苦しみから開放されるために、他人をなんとか変えようとせず、自分を変えていくことが基本です。自分の努力やはたらきかけで変えることのできない他人の問題と、自ら変えることのできる自分の問題を分けていくことからはじまる心理学です。
森田療法の心理学
神経症の心理学的アプローチとして、神経症と呼ばれる症状を緩和・改善するために森田療法は生まれました。
森田療法の特徴は「あるがまま」です。一般的に言われる、克服すべき問題点やネガティブな感情を切り捨てようとするのではなく、全てあるがまま受け入れるという考え方です。
不安や怖れの感情を抱いたとき、それが足かせになって行動できなくなることがあります。行動するために、不安や恐れの感情を取り除こうとしたり、そもそもそういうネガティブな感情は持たないようにしようと自戒したりすることがあるでしょう。しかし、気をつけよう・気をつけなければ、取り除こう・取り除かなければと意識すればするほどに、逆にネガティブな感情にとらわれてしまいます。自転車に乗っていて、左に溝があるから落ちないように注意しようと左を意識しすぎて、なぜだかかえって左に左に向かってしまう現象のようなものでしょう。
森田療法では、不安を自然な心の動きとしてそのまま受け入れ、ネガティブな感情も、ポジティブな感情と同様に仲良くしていこうとするアプローチです。ネガティブな感情をどうにかしようとしなくてよくなるため、ネガティブな感情への焦点がはずれ、今度はどう行動していきたいのかという自分の願望・欲求に焦点があたるようになります。こうしてネガティブな感情のとらわれから脱却していくのです。
森田療法もゲシュタルト療法と同様、神経症の原因を過去に求めるのでなく、自分の捉え方にあると視点を移した心理学です。
日本メンタルヘルス協会 心理学講座参