少しものを知るようになってわかってきたのは、読売の歴代トップというのは新聞社を私物化しているということだった。
正力はもちろんのこと、務台光雄もすごかった。販売の神様といわれて、「新聞は白紙でも売ってやる」と豪語していた。時の総理にも、「俺が読売新聞を動かせば、あんたなんかすぐ首を飛ばせる」と迫ったことがあった。
私が務台の口から直接聞いているから事実であろう。社内にスパイを置いて、自分に歯向かうものを次々に粛清していった。
次期社長といわれていた氏家斉一郎を日本テレビに飛ばし、そこからも外したのは、氏家の才能と力を恐れたからであった。
務台がやったのは正力の業績を消すことだった。正力がやったことになっているがあれは自分がやったのだといっていた。
94歳まで生きたが、死ぬまで代表権を放さず社に車椅子で出ていたという。自分がいなくなれば、次の奴が何をするかわからないと心配だったったのだろう。
その務台が次期社長に指名したのが渡辺であった。氏家と同期で読売の顔だったが、渡辺のほうが使いやすいと考えたといわれた。
だが渡辺も務台の痕跡を消し去り、務台以上の私物化を始めた。代表権を持ちながら「主筆」も自分でやり続けた。経営と社論の両方を我が物にしたのである。
本田靖春は『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)の中で、こう書いている。
「読売の論調が『渡邉社論』へと急旋回したのを印象づけたのは『自衛隊の憲法九条解釈』をめぐる社説だった、と前澤氏(本田の読売での同僚で論説委員などを歴任して大学の教授になった。彼が書いた『表現の自由が呼吸していた時代――一九七〇年代 読売新聞の論説』を引用している=筆者注)はいう。(中略)
実はこの日の朝、論説会議に先立って、司法担当の筆者(前澤)は渡邉論説委員長に呼ばれた。(中略)
『社論は私の一存で決められない。これまでも会議で諮ってきたが』
『社論を決めるのは私で、会議ではない。君にはこの社説は書かせない』
結局、会議で討論することなく、渡邊氏が自分で決めた『社論』に沿って、この日社説を書いたのは、司法担当以外の論説委員だった」