このように刀伊の入寇とは、日本史上の大事件であるだけでなく、中国大陸と朝鮮半島の政治的混乱の反映でもあったのです。ちなみに「刀伊」とは、「東の夷狄(いてき)」=「東夷」という意味の朝鮮語に日本側が当て字した結果に生まれた表記です。

 さて、隆家から早馬で報告を受けたはずの京都の朝廷は何をしていたのでしょうか。刀伊の入寇はドラマでも描かれたように体調不良に苦しんでいた道長が、厄落としを兼ねて剃髪した直後の時期の話です。体調が回復した道長の中では、権力欲が再びムクムクと芽生えていました。

 京都の朝廷では道長はやはり出家しようがカリスマですから、藤原実資(秋山竜次さん)は道長のもとを足繁く訪ね、出家後も政治の中心にいてほしいと請願しています(『小右記』)。刀伊の入寇事件当時も、公卿たちの会議(陣定)が行われる以前に情報を得た実資は道長の邸宅を訪ね、対応をいかにすべきかと事前にお伺いを立てたことが知られています。しかし、なぜか道長の反応は極めて鈍かったので、朝廷では具体的な対策を講じる前に加持祈祷を行い、すでに北九州の地から海賊たちが立ち去った後の4月27日になってようやく派兵準備に取りかかるという体たらくでした。

 まぁ、この辺も宮廷政治の一貫で、道長からすれば大宰府に追いやったことで、それこそ「終わった」はずの隆家が、この事件の中で当地の軍事勢力との絆を深め、勢力を回復しかねない恐れがあったのであえて放置したと見ることもできます。

 戦後も、朝廷の対応はピントがズレていたというしかありません。

 本来なら一番の功労者といってもよいであろう隆家には具体的な褒章はなく、大蔵種材が「壱岐守」になり、もう一人活躍を評価された軍事貴族・藤原蔵規(ふじわら・まさのり)が「対馬守」になった程度でした。後世に成立した歴史物語『大鏡』によると、当時の帝(後一条天皇・橋本偉成さん)は隆家の活躍に感動し、彼に大臣もしくは大納言といった相応の官位を与えようと思いましたが、隆家は眼病になってから都の人々との交流も失われてしまっていたので、そういう人物を朝廷の要職につけるのもいかがなものか……と「遠慮し」、隆家の昇進はなかったという無理のある説明をしています。実際の後一条天皇は、外祖父・道長からの「隆家を無視せよ」という圧力を跳ね返せなかったのでしょう。