ドラマでは隆家が武士たちと身分を超え、親しく交流する姿まで描かれました。史実の隆家がドラマのように公私ともに武士たちと交流していたかはともかく、九州の武士たち――というより、正確にはこの時代にはまだ「軍事貴族」たちと呼ぶべき人々から、隆家の人気は非常に高かったのは事実です。
もともと隆家は気性が真っすぐで、それゆえ史実では策略家の道長とは何度となく衝突していましたし、後年、尖ったもので目を傷つけたことで視界が悪くなり、大宰府には腕のよい中国人の眼科医がいると聞きつけ、大宰権帥になりたいと道長に申し出たそうです。そして、それを許された結果、大宰府に赴いたのでした。
しかし隆家は当地の人々から身分を超えて慕われ、善政を敷いたと伝わります。都の高貴な生まれだからといって、朝廷での権力闘争より、外の世界でのびのびと生きるほうがよほど性に合っている隆家のような貴族も本当は多かったでしょうね。
第46回のタイトルにもなった「刀伊の入寇」でも隆家が大活躍しています。刀伊の入寇とは、隆家が大宰権帥として大宰府に下向してから約4年後、つまり寛仁3年(1019年)3月末から4月にかけて発生した外国人勢力による襲撃事件です。襲撃事件というより、小規模な戦争であったといったほうが正しいかもしれません。約50艘もの海賊船が対馬・壱岐を襲い、略奪や殺人、人さらいなどを行ったのでした。
また海賊たちは、壱岐の人々や対抗した役人たち148名を惨殺し、女性239人を拉致するなど極めて残忍でした。命がけで包囲を突破し、逃げられた人からの報告が隆家に届いたのが4月7日。隆家はその日のうちに飛駅使(ひえきし)と呼ばれた早馬を都に飛ばしています。
しかし早くも翌・8日には筑前国・怡土(いと)郡(現在の福岡市西部と糸島市付近)が海賊に襲撃され、隆家は「海賊はハヤブサのように素速い舟だから対抗できない」と都に書き送っています。