もはや朝廷の対応など待っていられない、スピードこそが鍵であると悟った隆家は、九州各地にすでに根づきつつあった軍事勢力を結集させることに成功しました。隆家は、70歳を超えてなお、現地の武人たちの中心人物だった大蔵種材(おおくらのたねき・ドラマでは朝倉伸二さん)からも気に入られていたこともあり、隆家の呼びかけに多くの武人たちが素直に従ってくれました(大蔵種材は、瀬戸内海の海賊の棟梁・藤原純友による反乱事件の鎮圧にも貢献した軍事貴族の一族の末裔です)。

 9日には、博多に侵入しようとした海賊を弓矢を得意とする武士や、当地の庶民たちが撃退する一幕もあり、それ以降も防戦が基本でしたが、戦闘があるたびにジワジワと海賊を討ち取ることに成功していきます。ドラマではなぜか弓兵まで崖から浜辺まで降ろし、射撃させていましたが、普通なら高所から敵を狙い撃ちさせるものではないか……と思ってしまった筆者です。双寿丸たち歩兵と同じシーンに収める必要があったからでしょうか。

 史実の隆家は海賊が上陸しうる地点を予測し、十分な兵力で守らせてもいました。13日には、肥前国・松浦郡(現在の佐賀県唐津市から長崎県佐世保市の一部)を襲った海賊をも討ち取ることに成功。海賊たちはついに侵攻を諦め、帰国していったようです。海賊たちに襲われた対馬・壱岐と呼ばれる九州北部の島々は、当時の日本では交易によって大きな利益を得られていた富裕な地域でもありました。

 また、海賊を構成していたのは、もともとは中国東北部に暮らしていた女真族だと考えられています。しかし唐王朝の滅亡後、混乱が続いていた中国大陸では宋王朝が新たに成立してからも、宋の軍事支配力は弱かったので、異民族の統制もかつてのようにはうまくいっておらず、女真族の一部は朝鮮半島にまで侵攻していたそうです。

 当時の朝鮮を支配していたのは高麗国でしたが、高麗は女真族に宋との貿易を禁止していたので、その「あてつけ」として、調子に乗った女真族の一派が高麗や日本の九州地区まで荒らし回るようになったと考えられています。