秀忠が上田に長く留まった理由はほかにもあり、当時の信州は秋の長雨の真っ只中でした。足元が悪いのに大軍を進ませれば、地の利がある真田軍から挟み撃ちにされる危険性も考えられ、動くに動けなかったという事情もあるようです。

 家臣の進言にようやく耳を貸した秀忠が上田攻めを切り上げ、家康率いる東軍本隊に大津で合流できたのは9月20日でした。関ヶ原の戦いは9月15日に開戦・終戦しており、5日の大遅刻です。

 家康は激怒のあまり、謝罪したいという秀忠に会おうともしません。そこで父子の間に立ってくれたのが榊原康政でした。秀忠は家康からの「早く来い」という要請を無視したのではなく、悪天候で家康からの使者が川を渡れずに秀忠への連絡が遅れただけだと康政が説明してくれたので、家康も怒りの矛を収めざるをえなくなりました。しかし、秀忠のこの大遅刻は彼の人物評価に大きく影響し、その後も変わらず秀忠を推してくれたのは大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)のみでした。その場では弁護してくれた康政を含め、家康の側近には、秀忠を家康の後継者にふさわしいと考える者はいなくなってしまったのです。