蜂起した三成は家康討伐のため、全国の有力者に協力を要請する書状を送ります。その中には、家康にとっては宿敵ともいえる真田家の面々もいました。

 会津の上杉討伐に向かう徳川家康は、上方において三成が「西軍」を結成したことを知って憂慮し、下野国・小山(現在の栃木県小山市)における7月25日の評定の結果(いわゆる小山評定)、上杉討伐を中止し、上方に向かうことになりました。小山評定は後世に作られた虚構だったという説も最近は出ていますが、その点については説明しているとキリがないので、このくらいで留めておきます。家康はなぜか8月4日まで小山に留まった後に、上方に向けて進軍開始しました。

 それより少し前、家康は配下の真田家に出兵を要請しており、真田父子は沼田を出立しました。犬伏(現在の栃木県佐野市)で陣を張って、徳川秀忠の率いる軍勢・約3万8千がそこに合流する予定だったのですが、その直前、彼らのもとに三成からの密使が到着したのが7月21日のことだといわれます。

 真田家と三成は親戚関係にありました。まぁ、「表裏比興」とされる真田昌幸は情に流される人物でもなさそうですが、それはともかくこの日、三成からの手紙を読んだ昌幸は家臣たちを完全に締め出して父子3人だけで密談し、自分と次男の信繁は「西軍」に付き、長男の信幸だけは「東軍」に付かせるという判断を下しています。いわゆる「犬伏の別れ」の名場面です。西軍と東軍のどちらが勝っても真田家は生き残りを図れるものの、家族が敵と味方に分かれねばならないというつらい選択をしたのでした。