◆不安に悩みながらも子どものお弁当作り続けた

 不調であっても、「元気でなければ私じゃない」と自分で自分にプレッシャーをかけ続けた。与謝野晶子や金子みすゞの詩に曲をつけたコンサートが話題にもなっていた。そのさなかの36歳のとき、研究者の夫が在外研究でカリフォルニアの大学に行くことになった。家族で行くべきかどうか、かなり悩んだという。

「仕事がとても順調だったから、このまま日本にいたい気持ちもありました。でも、子育てと仕事で綱渡りみたいな生活が続いていて、もしかしたら環境を変えてみてもいいんじゃないかとも思った。

 最後は、もしアメリカ生活が向いていなかったら1ヶ月で戻ってきちゃってもいいや、という気持ちで行ったら、案外、楽しくてね。あちこちでコンサートをすることもできて。ところが帰国したら、今度は、死んだほうがマシというくらいの心身症になってしまった」

 新幹線に乗ると不安が高じて、ずっと車内を歩き続けてしまう。飛行機に乗ると飛行中に降りたくてたまらなくなる。体の中に「何か別の物がいる」感覚があった。それでも40歳を過ぎてから大学の教員の職も得、学生と接することで救われるところもあった。とにかく、根がまじめなのだ。自分に完璧を強いる性格だから、どんなに多忙でも朝早く起きて子どもにお弁当を作っていたという。

◆乳がん闘病や母親の介護を経て腹が決まった

 完璧にやらなければと思っていた彼女が変わったのは、50歳を越えて乳がんになったころからだ。

「しこりがあったのは気づいていたんです。でも父をがんで亡くしているし、不安で怖くて病院に行けなかった。仕事で気を紛(まぎ)らわしていたんですよね。だから結局は、手術、放射線、抗がん剤、ホルモン剤とフルコースになって……。

 ただ、春先、入院しているときに病室の窓から外の景色を見て、ああ、こんな時間を過ごしたことはなかったなあと感じたのね。それと同時に、どんな思想や理想をもとうが、私も単なるヒトという個体に過ぎないとよくわかった。無意識のうちに命の瀬戸際を感じとっていたのか、肝が据わって心身症がおさまってしまったんですよ(笑)」

作曲家・吉岡しげ美さん
 そして吉岡さんは「無事に生き延び、今、再発していないんだから大丈夫」と信じて生活しているうちに60代となり、今度は母親の介護がのしかかってきた。そこで、もうくよくよしていてもしかたがないと腹を決めた。

「9年間、入退院を繰り返す母を看ました。けっこう大変だったけど、私しかいないし、たったひとりの母ですから。

 最初のコンサートのときから、つまりゼロからの私を知っているのは母だけ。ずっと応援してくれていましたね。それがうっとうしかったこともあるけど、3年前に亡くなってからはやはり寂しいなあと思います」

 さらにその後はコロナ禍で音楽活動も厳しい日々が続いている。それでもたどりついた45周年。

「名誉にもお金にもならないことをしてきたのかもしれません。集客がうまくいかず、どうして人にわかってもらえないんだろう、とにかく聴いてほしいだけなのにと悩んだこともある。でも今になってみると、ひとつのことを続けてきたからこそ時代が見えたなと思いますね」