◆たったひとりでコンサートを続けてきて45年
同時期に、日本女子大学児童学科に学士入学。
「女と子どもに興味があるんですよね。児童学科とはいってもいろいろな勉強ができました。女性は男がいないと、遠慮せずになんでも自分でやるでしょ。私は女であることに落とし前をつけたい、女であることを根本的に勉強しなおしたかったから“女子大”に行ってみたかったんです」
もう一度、自分の人生をたどるように学んでみたかったのかもしれない。
「自分で詩を書いて曲をつけたいとも思ったけど、書けないんですよ。それで書店の詩のコーナーを巡っていたら、出会ったのが新川和江さんや茨木のり子さんの詩。最初のコンサートから1年後、またコンサートをしました。詩人たちの応援もあって、お客さまもけっこう来てくれて」
それから毎年、このコンサートを続けてきたのだ。彼女の音楽活動の芯は、このコンサートなのかもしれない。どこの事務所にも属さず、マネージャーもつけず、たったひとりでセルフプロデュースを続けてきた。
「この活動は自分ひとりですべての責任を負わなければいけないと思ってやってきたんです。それは詩人への敬意から。詩人の許諾、亡くなっている方なら遺族の許諾を得て作曲しているわけですよ。
音楽事務所に入ったりマネージャーがついたりしたら、私の知らないところで何かが起きる可能性もあるじゃない? だから主催者は私、プロデュースも私。ただ、今回は45周年の記念だから、手に負えなくなって初めてプロデューサーを頼みましたが」
詩を書いた人たちへの重い責任を感じながら、たったひとりでコンサートを続けてきて45年。彼女の粘りと詩や音楽への熱い思いがこもったコンサートになるはずだ。
◆子育てしながら多忙に働くうち心身に不調が…
音楽をライフワークとしながら、吉岡さんは日本女子大大学院生の30歳のころ、結婚している。相手は20歳のころからの知り合いだった。
「結婚願望はなかったんですけどね、まあ、縁ですかねえ」
31歳のときに出産、子育てをしながらコンサートをしたりNHKの仕事をしたりと多忙を極め、心身に不調が起こり始めた。
「当時は心身症と言われましたが、今だと不安神経症とかパニック障害とか、そういう感じかもしれない。怖くて電車に乗れなくなったり過呼吸が起こったりするの。あとから考えれば、もしかしたら父の死を引きずっていたのかもしれませんね。父の死を大人になってからも受け止めきれていなかったような気がする」