◆極端な男社会だった音楽業界

 アパート経営をしていたので、経済的には困らなかったが、母は「手に職をもったほうがいい」と音楽への道を進めた。

「あわてて受験勉強を始めたのが高2から。なんとか武蔵野音大に滑り込んで。当時は大学闘争の時代で、私も社会のさまざまな問題に拳を振り上げていました。一方で、アングラ劇の音楽を担当したり、今もある東京室内歌劇に『手伝わせて』と入り込んだりして音楽活動も続けていました」

作曲家・吉岡しげ美さん
 社会に出てから、大学闘争は男のものだったのかもしれないとふと感じた。それは音楽の仕事においても同じだった。

 作曲の仕事がしたくて、子どものミュージカルを自主制作したところ、レコード会社のディレクターを紹介されたものの……。

「当時はどこもそうだったのかもしれないけど、音楽業界も極端な男社会だった。現場は大変でしたよ。作曲家として録音に参加すると、『こんな若い女の作曲家ってなんだよ』『譜面、間違ってるんじゃない?』『写譜ミスかよ』などと現場で言われる。演奏家、ディレクター、音響、男性しかいなくて、誰もかばってくれない。

 名前があるのに『ねえちゃん』と呼ばれる。私は棒を振る(指揮する)立場なのに、いびられてばかり。悔しくてトイレで泣いたこともありました」

◆原点はふたりの女性詩人との出会いから

 しかも当時は、歌謡曲の世界でも漫画でも、描かれる女は「目がぱっちりして細身でかわいらしく、常に男を待っている女、男に操(みさお)を立てる女」がもてはやされていた。自分自身も、素直でかわいい女を期待されているのだろうと感じ、モヤモヤが募(つの)るばかりだった。それでも持ち前のねばり強さが頭をもたげていく。

 逆に、女の本質、女の本音をなんとか音楽にできないか、吉岡さんは考え続けた。そんなとき、友人に紹介されたのが福島県で農村を見つめながら生きてきた作家・詩人の新開ゆり子さんと、岩手県北上市の小原麗子さんだった。

「26歳のときでした。福島に飛んで行って新開さんにお目にかかりました。私は東京の生まれ育ちで植物の名前もろくに知らない。新開さんに呆れられちゃって。でも新開さんと小原さん、ふたりの女性との出会い、それぞれの詩によって、人が生き抜くこと、農村の女性たちの血と汗と涙……そういうものが私の体に伝わってきた。それが私の原点かな」

 その思いをこめて彼女たちの詩に曲をつけ、初めてコンサートを開催したのが28歳のときだった。ところが新開さんには、「あなたはやっぱり都会のお嬢ちゃんだ」と不評を浴びた。曲がきれいすぎて、詩の思いが伝わらないとバッサリ斬られたのだが、それでめげる吉岡さんではない。

「身の丈(たけ)に合わないことをしたとは思ったけれど、女の言葉を女である私が音楽で表現する、女の目線で表現していこうと決めました」