道長にとって、詮子は大の恩人ですから、彼女に先立たれるとその葬儀を取り仕切るだけでなく、遺骨を首にかけたとも『大鏡』にはありますね。史実ではお互いに野心家だった姉と弟は本当に仲が良かったようです。
今回は政治というか、平安時代の宮中の濃い人間ドラマについてお話してきましたが、文化的な方面にも触れておきましょう。前回は藤原道兼が急逝しましたが、彼が晩年には和歌に傾倒していたという次回予告後の「紀行」で触れられ、それが気になったという読者も多いでしょう。
ドラマではあまり彼の風流な側面については触れられてきませんでしたが、生前の彼は「粟田殿」とも呼ばれ、実際に京都・東山地区の粟田山に山荘(通称・粟田山荘)を作らせ、そこで和歌の会を頻繁に開いていたことが知られています。道兼の和歌は、一条天皇の治世に編まれた勅撰和歌集『拾遺和歌集』、さらに鎌倉時代に編まれた『続古今和歌集』に一首ずつ選ばれているだけなのですが……。
それでも注目したいのは、花山天皇(ドラマでは本郷奏多さん)を騙して出家させてしまった張本人の道兼が、花山天皇にゆかりの深い歌人たちとはその後も交流を続け、自身の粟田山荘にも招待していたという事実です(徳植俊之氏の論文『藤原道兼とその周辺――『拾遺和歌集』前夜における歌人の動静をめぐって』より)。
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