一方で、「格下」相手に配慮せねばならない苦労をしていた輝元たち大大名とは対照的に、石田三成が自身を「奉行」ではなく、より上の立場を意味する「年寄」と表記する書状も存在します。強気で知られた三成の強烈な自負心が反映されているとも言えるでしょうか。秀吉が亡くなる前後の豊臣政権における人間関係、パワーバランスは興味深いですね。

 慶長3年8月5日、秀吉はこれまで幾度となく発行してきた遺言状の総まとめといえる書状をしたためており、その中では「五人のしゅ(=衆)」が大老、「五人の物」が奉行を差す表現として用いられています。この書状において、「家老」とか「奉行」といった正確な役職名を(世間ではすでに定着してきているという板坂卜斎の証言があるにもかかわらず)あえて秀吉が出さなかったのは、家老のほうが奉行よりも上格であると認めることを避けたかったからかもしれません。

 この約2週間後に秀吉は亡くなっていますが、家康が1人で他の4人の大老たちをも圧倒して政権を牛耳り、三成ら5人の奉行と対立する未来が秀吉には見えていたのでしょう。先述のとおり、五大老・五奉行の制度は、身分では劣るものの才知をもって秀吉に仕えてきた人物から選ばれた「奉行」たちが、身分の高い「大老」たちにも互角にものが言える制度として構想されたと思われます。そして大老と奉行の間には3人の中老(堀尾吉晴、生駒親正、中村一氏)が存在し、「両者が揉めた時には調停を行うべし」とされていました。中老の存在ひとつとっても、秀吉には大老――というか家康の暴走が始まると予測できていたのだと思われてなりません。